2022年6月30日第233回「今月の映画」「大河への道」
原作:立川志の輔 監督:中西健二 主演:中井貴一 松山ケンイチ 北川景子 岸井ゆきの
(1)パンフレットにもありますが、飛行機もドローンなども無い時代、日本地図をどうやって作製するのか・・・です。
映画では、グラウンドを歩数で計測するかのように、10~20人くらいの人達が、歩数で計測しているのです。野球場や多摩川を計測するのも極めて難しいですが、ましてや曲がりくねっているだけでなく、山あり谷あり、そして全く見ることも聞くこともできない日本全体・・・それをどうやって正確に計測できるのか、私・藤森には、想像を絶します。 その「伊能図」が、現代の衛星写真で重ね合わせても、なんと!なんと!0.2%だけの誤差だとのことです。信じられますか?!?! (パンフレットによると) <伊能図>は、「大図」「中図」「小図」の大きさの異なる3種類の地図を作った。日本列島を全8枚に分割して作製した「中図」をもとに繋ぎ合わせたものである。衛星写真をもとにした実際の海岸線との誤差はなんと0.2%しかないとのこと。 飛行機やドローンなど何もなかった江戸時代にこれだけの地図を作り上げたのは驚異に値する。原作者の立川志の輔が、そして橋爪功が演じる劇中の脚本家・加藤が、伊能忠敬記念館で伊能図の精度に鳥肌が立ったのも頷けるであろう。 |
(2)「解説」
<世界を驚かせた「初の日本地図」完成から200年。その裏に隠され続けた秘密が、遂に明かされる・・・。> 「地球の大きさを知りたいのです」。そんな夢とロマンを抱き、55歳から地図作りを始めた伊能忠敬。根気と執念で日本全国を測量すること17年。1821年、遂に日本初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)は完成した・・・というのが歴史の授業で習うこと。しかし、200年の時を経て、そんな日本史の常識をひっくり返す映画が誕生した。 原作は、立川志の輔による新作落語「大河への道・・伊能忠敬物語・・」。伊能忠敬記念館をたまたま訪れ、忠敬の地図の恐るべき正確さに驚愕した志の輔は、その偉業を称えるべく、全く新たな視点による物語を仕立て上げた。 “究極の話芸”とも評される志の輔らくごの一つとして世に送り出されたそれは、2011年の初演以来絶賛を浴び、今なお多くの人を感動させ続けている。 そして俳優・中井貴一もその一人だった。何としてもこれを映画にしたい!まさに伊能忠敬と重なるかのような中井の熱い想いによって、志の輔の「大河への道」は“映画への道”をあゆみ始めた。 主人公は千葉県香取市役所に勤める池本保治(中井貴一)。ある日、観光振興策を検討する会議で意見を求められた池本がひねり出したのは、郷土の偉人・伊能忠敬を主人公とする大河ドラマの実現だった。そしてなんとその提案が採用されてしまうのだ。ところが企画を進めるうちに、地図を完成させたのは伊能忠敬ではなかった!?彼はその3年前に亡くなっていた!?という日本の歴史を変える驚きの事実が明らかに・・・。江戸と令和、二つの時代を舞台に明かされていく、日本初の全国地図誕生秘話。そこには地図を完成させるため、伊能忠敬の弟子たちが命を懸けて取り組んだ、とんでもない隠密作戦があった! 主演は『記憶にございません!』(19)の大ヒットが記憶に新しい中井貴一。幅広いジャンルにおいて第一線で活躍し続け、今や国民的俳優として愛されている。共演には『聖の青春』(16)、『BLUE/ブルー』(21)など、作品ごとに鮮烈な表現で観るものを魅了し続ける松山ケンイチ。中井とは大河ドラマ「平清盛」(12)以来の共演となる。そして、『ファーストラヴ』(21)、『キネマの神様』(21)など、人気、実力ともに日本映画に欠かせない存在となった女優・北川景子。中井とはこれが初共演である。さらに、岸井ゆきのや和田正人、西村まさ彦に平田満、そして原作者でもある立川志の輔や草刈正雄、橋爪功といった、若手からベテランまで、個性豊かな実力派キャストが勢揃い。しかも、映画で描かれる<令和の現代劇>と<江戸の時代劇>の二つの世界の登場人物たちがすべて、豪華俳優陣の<一人二役>によって演じられるという、想像するだけで胸躍る仕掛けとなっている。 監督は、『青い鳥』(08)、『花のあと』(10)の中西健二。脚本は、「JIN・仁・」(09)、大河ドラマ「女城主 直虎」(17)などの森下佳子。そしてソロデビュー35周年を迎えた玉置浩二が、真心込めて書き下ろした楽曲「星路(みち)」で、映画のエンディングを美しく彩る。 前途多難な大河ドラマ実現に奮闘する池本たち。そして日本地図の完成に人生をかけた名もなき偉人たち。豪華キャストが一人二役で贈る、観たことない!が詰まった、歴史発見エンタテインメント『大河への道』。鳥肌の立つような感動の実話をあなたに・・・。 |
(3)「物語」
<伊能忠敬は日本の地図を完成させていない。だからドラマにはならない> 千葉県香取市役所に勤める池本保治(中井貴一)。あと5年で定年を迎える年齢に差しかかったが、いまだ総務課の主任・・・。そんな冴えない男にある日、転機が訪れる。市の観光振興策を検討する会議に参加した池本は観光課長の小林(北川景子)に意見を求められ、たまたま目に入った大河ドラマのポスターにつられて「大河ドラマとかどうですか?」と答えたところ、幸か不幸かその企画が通ってしまった! 郷土の偉人を主人公にした大河ドラマが出来れば、間違いなく観光客は増える。問題は誰を取り上げるかだ。池本は伊能忠敬こそ相応しいと、その名を提案する。伊能忠敬は、日本で初めて精密な全国地図を作った歴史的人物だ。「地球の大きさを知りたい」と50歳で幕府天文方に弟子入りし、55歳から亡くなる73歳まで日本全国を歩き続け、驚くべき正確さで日本地図を作った偉人。知事からも正式に大河ドラマにチャレンジしてほしいと依頼があり、事の経緯から、なんと池本はプロジェクトリーダーに据えられてしまう。 まずは脚本作りに取り掛かろうとする池本。お調子者だけど憎めない部下・木下(松山ケンイチ)とともに、とある老脚本家を訪ねる。素晴らしいヒットドラマを何本も生み出しながら、なぜか人気の絶頂で引退した加藤幸造(橋爪功)だ。渋る加藤を手練手管で説得し、プロットの作成をなんとか引き受けてもらう。伊能忠敬の人生の足跡をたどるごとに加藤の伊能に対する興味も増し、脚本は順調に進んでいるはずだった。 しかし、プロット提出のその日、加藤から衝撃的な言葉を聞かされる。「伊能忠敬は『大日本沿海輿地全図』を完成させていない。だからドラマにはならない・・・」。忠敬の没年は1818年。地図が完成する1818年までの3年間、「忠敬の死は伏せられていたんだ」。茫然とする池本と木下。固まる二人を前に、加藤は伊能図と呼ばれる日本地図完成までの道のりを静かに語り始めた。 <そして、舞台は江戸へ> 伊能忠敬が地図の完成を見ることなく、亡くなってしまったその日。弟子たち測量隊の面々は悲しみにくれながら、ある心配に苛まれていた。莫大な予算がかかる地図作りは、幕府から金食い虫とみなされ、忠敬の死によって作製が打ち切られるのかもしれない・・・。そこで彼らは、師の志を継いで地図を完成させるため、天文方(天文・暦術・測量などをつかさどる江戸幕府の役職)を取り仕切る高橋景保(中井貴一)に懸命に頭を下げる。それは、しばらくの間、忠敬の死を幕府に伏せてもらい、その間に地図を完成させるというものだった。 万が一幕府の耳に入れば打ち首になると、聞く耳を持たなかった景保だが、忠敬のかつての妻エイ(北川景子)が仕掛けたある策に騙され、また弟子たちの地図作りの熱意にも心を打たれ、結局、忠敬の死を隠すことに協力する。こうして、測量結果を地図にする作業と並行して、忠敬がさも生きているかのような偽装工作に全力で取り組む日々が始まった。景保たちは忠敬の遺志を継ぎ、日本地図を完成させることが出来るのか・・・。 一方、200年の時を経た現代、池本たちの伊能忠敬大河ドラマプロジェクトは実現するのか!? |
(4)「伊能隊の測量方法」(伊能忠敬はどのようにして日本全国を測量したのだろうか?伊能隊の測量法の3本の柱を紹介しよう。)
<導線法> すべての海岸線が直線であれば話は早い。しかし当然ながらそうではないので、曲線をいかに正確に測量するかが重要となる。伊能隊では曲線を短い直線の連続に分けて測量をした。「梵天(ぼんてん)」という竹竿を曲がり角に立て、その間の距離を「間縄(けんなわ)」などを使って測ったのである。しかし縄には水分で伸縮してしまうなどの欠点があり、第3次以降は「鉄鎖(てっさ)」も使用されることになった。坂道においては勾配を測量し、三角関数を利用して平面の距離を計算した。さらに「彎窠羅鍼(わんからしん)」という器具を使って方位角(次の直線と北との角度)を調べ、方角を測った。この作業は次の曲がり角からも同じ直線の方位角を測り平均値を計算することで、地図の精度を高めている。 <交会法(こうかいほう)> 複数の曲がり角で同じ目標物の方位を測るのが「交会法」と呼ばれる作業である。富士山、大木、寺院など目立つ目標物が曲がり角で見えたら、その方位角を測る。さらに別の曲がり角で同じ目標物が見えたら同様に方位角を測るのだ。この作業を入念に行なうことで、導線法で得たデータの誤差や計測ミスを検証することができる。地図の下図を描く際に、おかしな箇所を補正することが可能なのである。導線法も交会法も伊能忠敬が開発した測量方法ではない。いずれも当時としては特段珍しいものではなかったが、伊能隊はこれらを丁寧に、そして数多く実施することでミスを防ぎ、精度を高めていったのである。 <天体観測> 伊能以前の地図との大きな違いが、実際に測量した緯度を地図作りに活用した点である。天体観測は晴れた日の夜に行なわれた。北極星に見える恒星の高度を測定し、望遠鏡と目盛盤のついた器具を子午線上に配置して、恒星が子午線を横切る際の高度角を読み取った。このデータと江戸・深川の忠敬の自宅で測定した高度表を比べることで、緯度を調べることができたのだ。一方、経度の測定は非常に困難であった。伊能隊は日食と月食を3箇所で同時刻に観測することを試みた。3箇所とは、江戸・大坂・忠敬のいる地点である。 伊能隊の測量期間中に起こった日食は4回、月食は9回だったが、どこかが悪天候だと観測は成立しない。結果的に経度はうまく測定することができず、不成功だったと言える。 *間縄(けんなわ)・・・伊能隊が使った間縄の形は正確に分かっていないが、当時一般的に使用されていたのはこのような形でだった。クジラのヒレを裂いて作ったものが一番上等であったと言われている。 *鉄鎖(てっさ)・・・間縄と同様、残念ながら伊能隊が実際に使用した鉄鎖も現存していないが、こちらの模造品は伊能忠敬記念館に保存されているものである。 *彎窠羅鍼(わんからしん)・・・曲がり角で方角を測る際に用いられる。当時、伊能隊に限らずほかの測量家も一般的に使用していた。忠敬は独自に改良して使用していたと言われている。
(5)「地図の作り方」(日本全国を測量して集めたデータを、どのようにして地図にしていったのか。5つの手順を見ていこう。) *下図・・・測量中の旅先においても、夜間や雨天時などに下図を作ることもあったが、基本的には測量が終わり、江戸に戻ってきてから行なわれた。手順はこうである。まず和紙を広げ、曲がり角の位置(測量データに基づく)に針で穴をあけて、それを線で結んでゆく。この線のことを「測線」と呼ぶ。しかし、測線を結ぶだけではどうしても誤差が生じてしまう。そこで役に立つのが「交会法」である。交会法のデータを活用して誤差を補正していった。 *寄図・・・できあがった下図を数枚つなぎ合わせて、60km~80kmほどにする。つなぎ合わせたものをさらに大きな和紙の上に置いて、「針突法」と呼ばれる方法で針穴に針を刺してゆく。そうすることで針穴のついた「寄図」が出来上がる。 *清書・・・寄図が完成したらそれを清書用の和紙の上に配置する。そして再度針を刺してゆく。針穴と針穴を朱線で結ぶことで測線を描くのである。この時、あらかじめ清書用の和紙を何枚か重ねておけば複数の針穴図を作ることが可能だ。その複製方法は伊能図の大きな特徴であり、ほかに似た例はほとんど見られない。 *風景・・・伊能隊では、日本全図の測量中に各地で沿道風景を写生している。これを「麁絵図(あらえず)」という。麁絵図を参考にしながら、砂浜や山や城などを測線の周りに描いてゆく。 *地名と地図記号・・・地図記号の判子は「合印(あいじるし)」と呼ばれていた。例えば「★」(藤森注・★の中が空白ですが出せないのでごめんなさい)印は天体観測点である。これらを朱印で押していった後に地名を加え、ようやく伊能図は完成するのである。映画でも描かれているが、当然ながら下図から地名の記入まですべて手描き・手作業であるから失敗は許されない。気の遠くなるような作業である。 |
(6)「伊能測量隊のあゆみ」(17年の歳月をかけて日本全国の測量を続けた伊能測量隊。1次から10次にわたる彼らの道のりを辿ってみよう。)
●第1次 奥州街道と蝦夷地東南岸・・・寛政12年閏4月19日~10月21日 ●第2次 相模・伊豆・・・享和元年4月2日~6月6日 ●第3次 出羽・越後・・・享和2年6月11日~10月23日 ●第4次 尾張・越前以東・・・享和3年2月25日~10月7日 ●第5次 畿内・中国・・・文化2年2月25日~文化3年11月15日 ●第6次 四国・大和路・・・文化5年1月25日~文化6年1月18日 ●第7次 九州東南部と往還路・・・文化6年8月27日~文化8年5月9日 ●第8次 九州残部と往還路・・・文化8年11月25日~文化11年5月3日 ●第9次 伊豆七島・・・文化12年4月27日~文化13年4月12日(忠敬は不参加) ●第10次 江戸府内・・・文化12年2月3日~19日、文化13年8月8日~10月23日(地図は省略)
(7)「やがて一つの夢となった忠敬の情念」(今村翔吾・歴史小説・時代小説家) 伊能忠敬。その名を知っている日本人は余りに多い。そして「大日本沿海輿地全図」、いわゆる日本地図を作ったという功績もまた、よく知られていることであろう。 しかし、実際に忠敬がどれほどの歳月を掛け、誰とともに、如何にして地図を作り上げたのかを知る者は少ないのではないか。そして前述した「大日本沿海輿地全図」が、伊能の死から3年後に完成されたことも・・。 私は歴史作家を名乗っているだけあり、正直なところそれらのことは知っていた。しかし、それらを紡ぎ合わせて、これほど壮大な物語になるとは露程も思わなかったというのが正直な感想である。 まず、本作のキーパーソンである伊能忠敬について触れたい。 伊能忠敬は延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村の名主の家に生まれた。幼名は三治郎。姓は小関。そう、伊能ではないのである。 6歳の時に母が他界し、婿養子だった父の実家に引き取られるなど、紆余曲折はあったが17歳の時、下総国香取郡佐原村で酒造業を営む伊能家に婿養子に入った。この時に、幕府の大学頭である林鳳谷から、忠敬という名を貰ったとされている。この時に「伊能忠敬」は誕生したという訳だ。 伊能忠敬は村の発展のために働き続ける。その中で様々なトラブル、困難にも見舞われることとなる。本題とは免れるために一々書きはしないが、忠敬はそれらに真っ向から挑み、見事に乗り越えていく。 そして天明元年(1781年)、36歳の時に佐原村本宿組名主になるまでとなった。忠敬が如何に村の人たちに信頼されていたのかが良く判る。 さらにその2年後の天明3年(1783年)、忠敬が38歳の時には「天明の大飢饉」と呼ばれる江戸時代でも有数の飢饉が起こった。ここでも忠敬は自らの財をなげうって、村の人々の救済を行った。酷い地域だと人口が半分になるようなこともあったが、忠敬のこの行ないにより、餓死者の数はすこぶる少なかったようである。 その後も忠敬は村の発展のために寄与し続け、寛政6年(1794年)の12月、49歳の時、隠居して家督を長男に譲った。 「あれ?」 と思われた方は多いだろう。地図は何時作るのだと。伊能忠敬の名や事績を知ってはいるものの、このことを知らない人はやはり多い。 伊能忠敬はここから地図を作り始めるのだ。いや、厳密にいえばまだである。まず隠居の翌年、50歳の時、江戸に出て幕府天文方である高橋至時に暦学、天文を学び始めた。 名主の家に生まれたことで、もともと人並み以上の算術などの知識はあったと思われているが、それにしてもここから学ぼうとする意気には舌を巻く。しかも当時の平均寿命は現在よりも遥かに短い。現代ならば、齢70にして大学教授を目指すようなものであろう。 幕府の許しを得て、忠敬が測量を始めたのは、それからさらに5年後の寛政12年(1800年)閏4月19日のこと。世間一般的に「伊能忠敬といえば・・」と、真っ先に思い付く測量の事績は、この年をもって始まったのだ。伊能忠敬、何と55歳の時のことである。 忠敬はこの事業に晩年を捧げた。途中、困難にも幾度となく遭った。それは彼が書き残した手記からも克明に判る。それでも決して諦めることなく続けたのは、凄まじい情熱であると言わざるを得ない。 忠敬は17年間の中で10度の測量を経て、文化15年(1818年)4月13日、73歳でこの世を去った。が、先にも述べたように「大日本沿海輿地全図」が完成するのは、その3年後のことなのだ。 本編の核心はここである。それを御覧頂いて楽しんで頂くとして、私が観終えた時に思ったのはただ一つ、伊能忠敬とは確かに一個の人間であったが、その身から迸る情念は、やがて一つの意志、一つの夢となったのではないか。本編はそれを追い求める人々の物語とだけは言える。 ≪≪今村翔吾・歴史小説・時代小説家・・・1984年生まれ。京都府出身。滋賀県在住。ダンスインストラクター、作曲家、守山市埋蔵文化財調査員を経て作家デビュー。デビュー作「火喰鳥 羽州ぼろ鳶組」で歴史時代作家クラブ賞・文庫書き下ろし新人賞を受賞。「羽州ぼろ鳶組」と「くらまし屋稼業」は、続々重版中の大人気シリーズ。2018年、「童神」で角川春樹小説賞を受賞。同作は「童の神」と改題し単行本として刊行。直木賞候補にもなった。20年「八本目の槍」で吉川英治文学新人賞、野村胡堂文学賞受賞。「じんかん」で直木賞候補、山田風太郎賞受賞。21年「羽州ぼろ鳶組」シリーズで吉川英治文庫賞受賞。22年「塞王の楯」で直木賞受賞。≫≫ |
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