2022年2月28日第229回「今月の映画」「ドライブ・マイ・カー」
原作:村上春樹 監督:濱口竜介 主演:西島秀俊 三浦透子 岡田将生 霧島れいか

(1)「『ドライブ・マイ・カー』8冠の大盤振る舞い」(夕刊フジ、3月13日)

 <第45回日本アカデミー賞>

 作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞他、最多の8部門で最優秀賞を受賞。

・・・・・・・・・・(以上は追加)

 「コンフィデンスマンJP」長澤まさみ、東出昌大、小手伸也、小日向文世たちの映画は、観客動員数がある週にトップになっていましたが、どうも、ストーリーの展開が、私・藤森のリズムに合わず、十分に楽しめませんでした。

 さて、今回の映画「ドライブ・マイ・カー」は批評家の方が抜群の点数を上げていました。半年位前の夕刊フジ「シネマパラダイス」で、映画評論家の安保有希子氏が満点(★5つ)の評価≪≪【ホンネ】脚本、映像、キャスティングと完璧が3つもそろった物語が、心をざわつかす。中でも、好青年の仮面の裏に狂気を潜める岡田将生が登場するたび、空気が変化。何か起こりそうだと体に力が入る。見事!≫≫と完璧な評価をしていました。

 しかし、運転手と後ろの座席に座っている主人公の写真が、私には全く、興味を持たせてくれない雰囲気でしたので、そのままにしていました。

 ところが、今年2月5日の日刊ゲンダイでは、「映画『ドライブ・マイ・カー』キネマ旬報ベスト・テン1位、米アカデミー賞 獲得なるか」「村上文学の世界観を見事に映像化」と、大きく報道されました。

<略>すでにカンヌ国際映画賞では邦画初となる脚本賞を受賞したほか、ゴールデングローブ賞でも同じく邦画として62年ぶりの非英語映画賞を受賞。さらに映画誌「キネマ旬報」が2日に発表した2021年公開作のベスト・テンでは日本映画1位に。アメリカのみならず世界中から絶賛される状況に、ノミネートされれば日本初の作品賞受賞も見えてくる。(後略)<日刊ゲンダイ>

(2)さらに、2月11日の夕刊フジでは、「オスカー阻む3つの壁『ドライブ・マイ・カー』」と、大きく報道されました。

 世界最高峰の映画賞、第94回アカデミー賞の作品賞など4部門でノミネートされた濱口竜介監督(43)の「ドライブ・マイ・カー」。アカデミー賞の前哨戦にも位置付けられる「ゴールデン・グローブ賞」でも非英語映画賞に選ばれ、いよいよオスカーが照準に入ったようだが、まだまだ高い壁があるようだ。

 「ドライブ・マイ・カー」は作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の計4部門でノミネートされた。日本映画が最重要の作品賞で候補入りするのは初の快挙となる。

 濱口監督の歩みをみれば、オスカーを手にする確率は極めて高くみえる。昨年7月にカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞。今年1月には「ゴールデン・グローブ賞」のほか、全米映画批評家賞でも作品賞、監督賞など4冠に輝いている。

 「独特の世界観が世界を魅了しています。濱口監督は10日から始まるベルリン映画祭の審査員に選ばれています。その後はフランスのセザール賞や英国アカデミー賞の授賞式も控えています。過去にオスカー候補となった日本の映画人の中でも、最もアカデミー賞直前に世界の映画人と接触しているのではないでしょうか。さらに『偶然と想像』の上映が世界各国で始まり、“濱口はこういう映画も撮るんだ”と驚きにも似た評価が高まっています」と映画評論家の小泉アキコ氏は機運の高まりを伝える。(後略)<夕刊フジ>

(3)これだけ大々的に報道されると、時間を割いて見に行かざるを得ません(?)。映画は午前10時40分スタート。朝早く出発するのは厳しい中、都合をつけて見に行きました。100人くらいの会場が満員になりました。

 いつ面白くなるのか、いつ興味を持たせてくれるのか、そういう意味で、興味津々でしたが、3時間もの長い時間、私・藤森好みとしては、残念ながら、全く面白くありませんでした。

 しかし、これだけ素晴らしい評価がなされている映画ですので、紹介させていただきました。

 パンフレットによると・・・

*隈研吾氏(建築家・東京大学特別教授・明治大学)・・・逃げずに、向き合わなくてはいけないというメッセージが、赤いサーブの美しいエンジン音と共に、今でも僕の車の中に響き続けている。

*黒沢清氏(映画監督)・・・サーブの切り立ったフロント・ウインドウが、身もだえしながら次々とトンネルに吸い込まれていく。それは西島秀俊のたどる過酷な運命そのものだ。こんな自動車映画いまだかつて見たことがない。

*岩松了氏(劇作家・演出家)・・・人はなぜ物語を求めるのかを問う。その動機が知りたきゃ走る車に乗ってみろと言われてるような、そんな素敵な『ドライブ・マイ・カー』!!

*伊藤さとり氏(映画パーソナリティ)・・・これは、映画史に残るオープニング。どの俳優にとっても代表作であり濱口竜介監督でなければ達成できない最高傑作を、私は一生忘れないだろう。

*松崎健夫氏(映画評論家)・・・これは、世界も認める人間讃歌を描いた正真正銘の濱口竜介監督作品だ。

 <他・省略>

(4)「身体から溢れでる生の息吹」(中条省平・映画評論家)

 村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」の主人公・家福は俳優です。たがいに深く愛しあっている妻がいますが、妻は女の子を出産して、その子を三日後に亡くします。それから妻はほかの男たちと性的関係をもつようになり、家福はそれに気づいていながら、妻の前で知らないふりの演技を続けます。彼は、舞台を離れても俳優だったのです。

 ヴィリエ・ド・リラダンの短編小説「人間たらんとする欲望」に登場する名優モナントゥイユは、自分が一生他人の書いたセリフだけを喋る俳優(偽の人間)であることに気づき、本当の人間になろうとして動機なき犯罪を犯し、真の人間的な悔恨がやって来るのを待ちます。しかし、そんなものはやって来ません。彼の求めていたものは、俳優である自分自身にほかならなかったからです。

 こうした俳優という存在の逆説から出発して、濱口竜介監督は、妻の死を契機に俳優業から遠ざかった家福が、ふたたび俳優という仕事に向かいあうまでの、自己回復のドラマを精緻に築きあげていきます。

 なんとも見事なのは、劇中劇として再現されるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の扱いかたです。村上春樹の原作でもこの戯曲のタイトルは引用されますが、それだけです。しかし、濱口監督は「ワーニャ伯父さん」における主人公ワーニャのドラマを、家福の自己回復の道程と重ねあわせるのです。

 その結果、映画『ドライブ・マイ・カー』は、「ワーニャ伯父さん」の主人公たちが到達する、哀しみに満ちた、諦念すれすれの自己肯定の感覚と、それを演じる家福とユナの自己肯定に向かうプロセスとを二重写しに表現することになります。俳優は、他人のセリフを喋るだけではない、その劇的行為を通じて、自分を肯定し、救済することになるのだという、先ほどのリラダンの主人公に対するアンチテーゼを提示するに至るのです。

 もうひとつ、濱口監督の作劇術で特筆すべきは、原作では主人公・家福の話の聞き手でしかなかったみさきに、家福と並ぶ大きな比重をあたえていることです。

 みさきが両親から酷い仕打ちを受けていたことは原作にも出てきますが、映画は、みさきの母の死を痛切なエピソードに変えています。北海道の故郷の家が地滑りで崩れたとき、みさきは半壊した家のなかに母がいることを知りながら、助けに行きませんでした。これはみさきの主観において母殺しなのです。

 その意味で、妻の不倫を知って傷つきながら、それ以上傷を広げることを恐れて真実の妻とも真実の自分とも向かいあわず、結果的に妻を失くした(独りで死なせた)家福は、みさきと同じく、主観的には妻殺しを犯した人間なのです。

 しかし、家福はみさきと出会うことで、また、みさきは家福と出会うことで、本当の自分に向かいあう勇気を発見します。そのプロセスを描くラスト近くの数十分こそ、この映画のクライマックスというべきでしょう。とくに感動的なのは、「ドライブ・マイ・カー」というタイトルに呼応する車の走行の場面です。この車によるみさきの故郷・北海道の上十二滝村への巡礼のエピソードは、原作には存在していません。

 家福を乗せてみさきが運転する赤いサーブ900はひたすら疾走します。細いトンネルを抜け、船に乗って海峡を越え、雪の原野を走り、まるで地上のしがらみを脱して、はるか彼方の冥府へと降っていくかのようです。車を走らせる場面だけで、異界へ滑りこんでいくようなスリルを醸成してみせるところに、映画作家としての濱口竜介の卓越した技量が表われています。

 そして、上十二滝村でのみさきの母への喪の営みを終わらせたのち、家福が発する「取り返しがつかない」、だが、「生きてかなくちゃいけない」という言葉は、「ワーニャ伯父さん」終幕のソーニャの「仕方がないの。生きていくほかないの」というセリフと正確に共鳴することになります。

 この瞬間、ソーニャが、みさきと重なりあいます。

 みさきは家福に、家福の妻のすべてを本当として捉えるべきだと語って、家福の妻を肯定するように促しただけではなく、家福にたいしても、自分のすべてを肯定するようにと導いていたのです。それはまさに、ソーニャがワーニャ伯父にたいしておこなった、失われた魂を救済する試みと同じものでした。

 そのソーニャを、俳優にとって最も大事な声という手段をもたないユナが演じていることは、きわめて意味深長です。

 映画『ドライブ・マイ・カー』が原作と異なって提起するもうひとつの本質的な問題は、言葉は抽象的なメディアではなく、人間の身体と密接に結びついた具体的な表現行為だということです。

 声をもたないユナは、手話を用います。しかし、手話といっても、それは小手先の技ではありません。顔の表情から筋肉や骨格の動きまでを駆使した全身的な表現であり、その意味で、それはまさに演技であり、アクションです。そこに現出するのは、言葉を声や文字に譲りわたす抽象的な通信ではなく、ユナの身体から溢れでる生の息吹なのです。『ドライブ・マイ・カー』は、ユナの生々しい手話の演技をとおして、言葉の原初的な身体性の再発見へと、観る者を誘っています。

(5)「日常における仮面と演技」(金原由佳・映画ジャーナリスト)

 払暁(ふつぎょう)を迎えようとする部屋の中で、女が囁くような声で、山賀という同級生に恋をする女子高生の物語を語り出す。その貌(かお)は部屋の暗さと溶け合い、傍らにいる家福悠介にしか見ることが許されない。観客が目撃できるのは語り部である家福音の長い髪と、腰部にあるヴィーナスのえくぼと呼ばれる窪みだけ。自ずと、彼女が何を語ろうとするのか、その声に集中するように、映画はファーストシーンから緩やかに観客を誘導していく。

 『ドライブ・マイ・カー』は声の映画である。村上春樹の短編集「女のいない男たち」は、大切な女性に去られてしまった男たちのエピソードを当事者、もしくは友人が、第三者へと語ることで成り立っていて「聞かせる」という行為が大きな意味を持つ。映画は独立した「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」の3編をある一人の男、すなわち家福悠介が体験する物語へと改編されている。

 「シェエラザード」のタイトルは有名な「千夜一夜物語」の巧みな語り部からつけられていることは説明するまでもないだろう。濱口竜介監督が声に重きを置いてキャスティングを考えたというのも至極当然である。成熟した大人ながら声に少年っぽさを残す家福悠介を演じる西島秀俊、甘美で悪戯めいた声の持ち主の家福音を演じる霧島れいか、若さと美しさを持て余すように挑発的な誘惑者である高槻耕史には、この映画では珍しく感情の起伏を見せる岡田将生、そして寡黙にして最高の聞き役である渡利みさき役の三浦透子(彼女は素晴らしい歌い手である)。

 中盤以降は演劇祭に参加する俳優たちのアントン・チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」の本読みの作業が丁寧に描かれ、俳優たちが台詞を己の肉体に入れていく様子を見せながら、その声が真実を帯びていく過程をも提示していく(これは濱口監督自身が取り入れているやり方に近く、西島演じる家福悠介と濱口竜介の重なり合いを見る愉しみもこの映画にはある)。四宮秀俊のカメラは濱口との共犯めいた企みで、先程の音の顔が逆光で見えないという場面をはじめ、「観客が見たいものをあえて映さない」ということを選ぶので、観客はより、声に耳を傾ける。

 濱口監督には長編映画『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』、そして『ドライブ・マイ・カー』と、一貫して描くモチーフがある。登場人物たちには胸に潜めた隠し事があり、嘘の露呈は、大切にしている関係性を根底から破壊してしまう怖さを自覚している。長い歳月をかけた関係性を保つためには、嘘を抑え込むある種の演技が必要で、嘘の方が本質的な何かを孕む場合もある。演劇というモチーフが重要な意味を持つのも濱口監督の作品の色濃い特徴である。特に『ドライブ・マイ・カー』では悠介は現役の俳優であり、音は女優から転じた脚本家である。日常に潜む演劇性の重さは際立つ。

 『ドライブ・マイ・カー』での転機。ウラジオストック演劇祭に旅立つはずが、飛行機の欠航で悠介が自宅に戻る場面である。完成脚本にはこう記されている。

家福のマンション・廊下~部屋中(昼)
ドア前まで来て、鍵を取り出す家福。
薄く音楽が聞こえることに気づく。
鍵を開け、中に入る家福。

 この後、彼は姿見越しに妻の情事を目撃。ト書きには「家福は物音を立てぬよう、そっと家を出る。」とある。鍵を再びかけ直して出ていく描写はない。冷静さは失われ、即座にその場から立ち去ったように見受けられる。とするとこの日、この後、音はドアの開錠に気づいただろうか。夫の帰宅に気づいた上で、「もしもし。無事についた?」と聞いたのなら、その後のなんてことはない夫婦のやり取りににわかに不穏な色が差し込まれていく。悠介の立場からすると、親愛なる妻が得たいのしれない怪物に変わった瞬間かもしれない。音からすると、昨日と同じ日々をやり過ごそうとしている夫の方が恐ろしい存在かもしれない。「どうしてこんなことを」と罵られ、責められた方が、胸に潜む空虚さの正体を遠慮なく相手に突きつめられるのに、その機会を奪われ、生殺しにされるのだから。

 しかしながら、浮気相手の男性が先に家を出たことで、音が気づかなかった可能性もある。鍵が開いていたことを浮気相手の男性が胸に納めたのなら、そしてその男が高槻であったのなら・・・広島での悠介と高槻の音の思い出を巡るやり取りにも幾つもの解釈が成り立っ。悠介と高槻が車の中で音について本質的な会話をする場面において、悠介が「音は別の男と寝ていた。それも一人じゃない。」と伝えるが、それも本当だろうか。だとすると情事を知ったときの狼狽ぶりは何だったのか、そこにも解けぬ謎が残る。

 分別のついた大人としての人物造形を俳優陣たちは心がけているので、鍵の開錠を巡るその後の展開は、悠介と共に情事を目撃した観客の選択に委ねられる。「さあどうぞ、どうとでも解釈してください」とばかりに。俳優陣は日常における仮面と演技性を身にまとってスクリーンの中に登場し、特に音と高槻は観客を攪乱する。彼らの感情表現は繊細で、微笑にまた別の勘定を潜ませる。だから私たち観客は、自分たちの日常と同じように、その真意を読み取ろうと目を凝らす。

 ただし三浦が演じるみさきは別で、毒親に育てられた彼女は人の嘘を聞き分けられる人として存在する。また、声を発することのできないソーニャ役のイ・ユナも、ストレートな感情を豊かな手の動きに込める。アントン・チェーホフの言葉もそこには効いている。

 イ・ユナは子供を流産し、悠介は娘を4歳で亡くしている。チェーホフもまたこの世に生を成すことのなかった子供の父親であった。「・・・チェーホフは、恐ろしい」「彼のテキストを口にすると、自分自身が引きずり出される。感じないか」「そのことにもう、耐えられなくなってしまった。そうなると僕はもう、この役に自分を差し出すことができない」と高槻に告白していた悠介が、みさきの故郷・北海道の上十二滝村にまで行き、崩れた生家跡を見てそこでようやっと自分の偽らざる心境を直視し、吐露する。その時の表情をカメラはじっととらえ続ける。困ったような、子供のような、無防備な顔。どんなに恐ろしい告白でも、静かに耳を傾けてくれる人がいる安心感。私たちは人生で何度、このような顔になれるだろうか。