2021年6月30日第221回「今月の映画」「ノマドランド」

監督:クロエ・ジャオ 主演:フランシス・マクドーマンド

(1) 本作『ノマドランド』では、ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞とトロント国際映画祭の観客賞をW受賞するという、映画史上初の快挙が成し遂げられた。さらにはゴールデン・グローブ賞でも作品賞と監督賞の2冠に。世界各国のメディアからも大絶賛を浴び、映画賞前哨戦を独走している。

 ということと、女性の監督で中国出身のクロエ・ジャオさんが、昔、中国を悪く言ったとかで、中国ではこの映画は無視されているとの報道があったので注目していました。

 ところで、現代の世界経済はどうなっていくのでしょうか?この映画の中でも出てきますが、主人公のファーンがアマゾンでアルバイトをしますが、アマゾンとかフェイスブックとか、アップル、グーグルなどは、いろいろ問題があるようですが、今後の「資本主義システム」はどうなっていくのでしょうか?

 

●●「鈴木棟一の風雲永田町」(夕刊フジ、6月24日)

 <「資本主義行き詰まり」本がブーム>

 <略>「ゼロ金利」については。

 「識者らは『金利をゼロにすれば、借り手は銀行などの前に列をなし、お金は住宅ローンや設備投資に回り、経済は急回復する』と思ってきたようだ。だが、こうした思惑が外れた。借り手は現れず、経済は冷え込む一方になった。実は、ゼロ金利は、資本主義の存在意義を根っこから揺さぶる大事件なのだ。『資本は利益や利息、利子を生む』との大原則に、もとる。お金が利息を生まないゼロ金利は、あり得ないはずだった。資本主義への疑念が、『確信』に変わり始めた」

 「格差」とは。

 「産業革命で格差が生じたのに触発され、マルクスは『資本論』を出版した。いま、経済学者らの研究で、労働者の賃金の伸びよりも資本家のマネーの運用益の伸びの方が、はるかに大きい。以前から格差は存在していたのだが、修復し難いほどに拡大している」

 「資本主義の行き詰まり」を指摘した本には、どんなものがあるのか。

 「フランスの経済学者、トマ・ピケティの『21世紀の資本』や、大坂私立大学の斎藤幸平准教授の『人新世の「資本論」』。法政大学の水野和夫教授の著書『資本主義の終焉と歴史の危機』などがある」

 経済評論家の石井正氏は続けた。

 「『資本主義が行き詰まった』とか、『資本主義は限界に来た』とする思いが、一般にも静かに広がってきている。これらの著者の有識者らはいずれも、資本主義の時代は終わり、新しい社会を形成する必要性を訴えている」

 そして、結んだ。

 「庶民の間で『なんだか世の中、変だよね』といった、もやもや感が生まれている。閉塞感が強まるなか、『出口』を指し示す解説本への関心はなお、強まるだろう」(政治評論家)

(2)「INTRODUCTION」

<新時代の映画界で先頭に立つ
クロエ・ジャオが撮り上げた雄大なロードムービー>

 未曾有の状況が続くなか、欧米・アジア各国で開催が実現した映画祭で受賞リストを伸ばし続ける監督は、前作の『ザ・ライダー』(17)でも多くの映画賞に輝いたクロエ・ジャオ。中国出身の彼女は、アベンジャーズに続く、新たな最強ヒーローチームが活躍するマーベル・スタジオの超大作『エターナルズ』(21)の監督にも大抜擢された新鋭だ。

 本作『ノマドランド』では、ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞とトロント国際映画祭の観客賞をW受賞するという、映画史上初の快挙が成し遂げられた。さらにはゴールデン・グローブ賞でも作品賞と監督賞の2冠に。世界各国のメディアからも大絶賛を浴び、映画賞前哨戦を独走している。

 原作は、気鋭のジャーナリスト、ジェシカ・ブルーダーが、数百人のノマドを取材して書き上げたノンフィクション「ノマド:漂流する高齢労働者たち」(春秋社刊)。ジャオ監督と、『ザ・ライダー』『ゴッズ・オウン・カントリー』(17)の撮影監督ジョシュア・ジェームズ・リチャーズの手で、広大なアメリカ西部の美しくも厳しい自然を舞台に、新時代の希望を映すロード・ムービーが誕生した。

<名女優フランシス・マクドーマンドが
実在のノマドと共演したジャンルレスな傑作

 企業の破綻と共に、長年住み慣れたネバダ州の住居も失ったファーンは、キャンピングカーに亡き夫との思い出を詰め込んで、季節労働の現場を渡り歩く。往く先々で出会うノマドたちとの心の交流と共に、誇りを持った彼女の自由な旅は続いていく・・・。

 ファーン役を演じると共に製作も担ったのは、『ファーゴ』(96)と『スリー・ビルボード』(17)で2度のアカデミー賞主演女優賞に輝く名優、フランシス・マクドーマンド。マクドーマンド自身の生き方や考え方、ファッションなどライフスタイルのすべてを投影して、ファーンというキャラクターが創り上げられた。

 ファーンと心を通わせるデイブ役には、『グッドナイト&グッドラック』(05)などのデヴィッド・ストラザーン。撮影方法も従来とは異なり、実在のノマドたちのなかにマクドーマンド自らが身を投じ、路上や仕事場で交流し、荒野や岩山、森の中へと分け入った。ファーンと旅路や仕事を共にし、深い絆を結ぶリンダ・メイ、スワンスキーも本人自身の出演だ。ドキュメンタリーとフィクションの境界線を軽々と超える、まったく新しい表現ジャンルが切り開かれた。

(3)「STORY」

<現代の遊牧民として生きる
ノマドとの交流と友愛、路上で見つけた安息>

 アメリカ、ネバダ州。60代のファーン(フランシス・マクドーマンド)は涙を浮かべ、長年住み慣れたエンパイアの町に別れを告げる。かつては大手会社の石膏採掘とその加工工場で栄えていたが、不況のあおりで町そのものが閉鎖され、全住民が立ち退くことになったのだ。仕事と住居を同時に失くしたファーンは、亡き夫の思い出をキャンピングカーに詰め込んで旅立つ。険しい岩山を抜け、広大な荒野を走り、夜になると車の中で眠り、現代のノマド(遊牧民)としての新しい生き方を探すのだ。

 デザート・ローズへやって来たファーンは、生活費を稼ぐためにアマゾン配送センターで短期の仕事につく。車上生活にも慣れてきたファーンは、“ヴァンガード(先駆者)”と名付けた車に、引き出しを入れたり、夫の釣り道具を加工してカウンターを作ったりして、使い勝手のいい空間に変えていた。代用教員を務めていたころの教え子に久しぶりに会って、「先生はホームレスになったの?」と聞かれても、誇りを持って「“ハウスレス”、別物よ」と答えるのだった。

 ファーンが友人になったリンダ・メイは、2008年に起きたリーマン・ショックですべてを失くしたが、「私の目的は救命ボートを出して多くの人を救うことだ」と言う現代のノマドの先人の著書を読んで、いまの暮らしを始めた。

 アリゾナ州のクォーツサイト砂漠の外れで開かれる集会“RTR(ラバー・トランプ・ランデヴー)”に参加したファーンは、大勢のノマドたちと交流する。焚火を囲んで語り合う身の上話は様々だったが、「定住という常識に縛られて、死ぬ時に後悔したくない」という想いは同じだった。

 そんななか、ファーンはトラブルに見舞われる。車のタイヤがパンクしてしまったのだ。あたりには“訪問お断り”の旗を出しているスワンスキーの車しかない。荒野でタイヤのスペアがないなんて、「死んだっておかしくないのよ」と厳しく叱られるが、なにかと気遣ってくれるスワンスキーは、実はガンを患い、余命わずかだった。それでもスワンキーは別れ際には、「またね」と告げるのだった。

 再び大自然へと分け入り、山の中で眠り、澄み切った河に浮かぶファーン。今度の仕事場は、バッドランズ国立公園のキャンプ場だ。その仕事を終えたファーンは、RTRで出会ってから言葉を交わすようになったデイブ(デヴィッド・ストラザーン)に誘われて、ウォール・ドラッグのカフェで働く。

 息子に子どもが生まれるからと家へ帰ったデイブと別れたファーンに、さらに大変なトラブルが降りかかる。エンジンが止まり、車が動かなくなってしまったのだ。整備工場では高い修理代を払うより、新しい車を買うよう勧められるが、ファーンは「他人から見ればボロ車でも私の家なの」と断り、姉のドリー(メリッサ・スミス)から金を借りることに決める。不動産業を営む夫と洒落た家で暮らすドリーを訪ねると「ここに住んで」と懇願されるが、「ムリよ」とファーンはすぐに旅立つのだった。

 広々とした田舎の家で、再び家族と暮らし始めたデイブのもとに立ち寄ると、デイブからも「ここに住まない?」と誘われるが、もはやファーンはベッドの上で一晩眠ることもできなかった・・・。

(4)「REVIEW」

<社会変革を後押しする、ストーリーテリングのパワー>(佐久間裕美子・文筆家)

 夫が働いてきた工場が閉鎖し、その夫と死別した女性が、家と所有物を処分してバンを購入して、長年暮らしてきたコミュニティを後にする。フランシス・マクドーマンド演じる主人公のファーンが目指すのは、Amazonの配送センター。年末商戦の繁忙期の間は、Amazonが借り上げたRVパークで生活することができるけれど、契約期間が終われば、次の停車場所と職を見つけなければならない。

 ファーンの物語の起点は、ネバダ州エンパイアだ。もともとセメント会社が作った町で、2010年の国勢調査による人口は217人だった。2011年に、唯一の雇用主だった石膏ボードの工場が需要の低下で廃業に追い込まれ、町は消滅して、住民たちは散り散りになった。「帝国」という町の名前がその悲哀を強調するが、特殊な物語ではない。

 映画の原作となった「ノマド:漂流する高齢労働者たち」(原題:Nomadland:Surviving America in The Twenty-First Century)は、ジャーナリストのジェシカ・ブルーダーが、自らキャンピングカーで旅をしながら季節労働者たちを取材して書いたノンフィクション。国内の製造業の衰退、2008~2009年の金融危機に伴う住宅バブル崩壊と大量立ち退き、自然災害などの理由によって、家を失ったり、コミュニティを追われたりし、キャンピングカーやバンで生活する人口が急増している。映画の中でファーンが言うように、家は持たないけれど、住処は持っている彼らは、ホームレスとは区別されるが、その多くが「プレカリアート(雇用不安定層)」で、大企業に雇われた派遣会社に斡旋されるのに従って季節労働で食いつないでいく。

 Amazonは、経済的に圧迫され、雇用を渇望する土地で配送部門の業務を展開する。その大半が、最低賃金が全米平均よりも低い共和党州にある。彼らを支援するのは、ないよりわずかにましという程度の最低限の社会保障だけ。労働者としての権利はなきに等しく、働けなくなれば、その生活は破綻する。彼らの存在は、アメリカの資本主義システムが抱える致命的な欠陥を象徴している。

 『ノマドランド』がリアルなのは、実際にノマド生活を送っている人たちが登場し、自分たちのストーリーを語るからだ。今、こうしている間も進行しているクライシスが、映画界といういわば特権的世界に属するプロの俳優たちだけによって描かれていたら、おそらく多少なりとも違和感を覚えただろうと思う。

 監督のクロエ・ジャオは、デビュー作品『Songs My Brothers Taught Me』から非俳優を起用してきたが、息子との関係を再構築するためにノマド生活を離れるデイブを演じたデヴィッド・ストラザーンと息子役を演じたテイ・ストラザーンは実際に親子で、関係がうまくいかなかったときがあったという。演じ手のリアルな痛みがストーリーに吹き込まれているのだ。

 『ノマドランド』が高く評価されているのは、今、アメリカ社会が、声なき声に耳を傾けようとしているからに他ならない。パンデミックという危機によって、Amazonを始めとする一部の大企業や経営者が一気に冨を増やした一方で、世界一リッチなはずのアメリカの各地に新たなホームレスのテント村が次々と生まれ、RVパークは、車で生活する人々でいっぱいだ。何かがおかしい、間違っている・・・ようやくでき始めたコンセンサスが『ノマドランド』と共鳴している。 

 アメリカのミドルクラスが一番安定していたのは、1960年代後半だった。公立学校システムができ、組合が正常に機能し、フルタイムの仕事さえあれば、家族を養い、老後の備えを蓄えることができた時代だ。しかし、国内の製造業がピークをすぎて、下降路線に転じ、コミュニティ精神が個人主義に取って代わられると、組合は「労働者を怠惰にする」「非効率だ」と攻撃されるようになった。

 クリントン政権時代にNAFTAが締結されると、製造業は賃金の安い海外への流出はさらに加速し、貧しい共和党州の雇用は不安定になった。雇用が不安定になれば、雇用主のパワーはさらに拡大する。その先には、さらに厳しい搾取が待っていた。結果、アメリカの貧富の差は、手がつけられないほど大きくなっていた。

 パンデミックが白日のもとに晒した格差を是正しなければいけない、ようやく今その機運が高まっている。アラバマ州のAmazon配送センターでは、従業員たちが組合結成の是非を問う投票が進行中だ。バイデン大統領は、公約どおり、労働者の組合を組織する権利を支持する立場を明らかにした。『ノマドランド』は、その世論を後押ししている。ストーリーテリングのパワーが、社会変革に手を貸している。今、私たちは、歴史的な転換を目撃しているのだ。

<Profile・佐久間裕美子・文筆家・・・慶應大学卒業後、イエール大学大学院修士課程修了。1998年よりニューヨーク在住。出版社、通信社勤務を経て2003年に独立し、ファッションから政治問題まで幅広いジャンルで執筆。おもな著書に「ヒップな生活革命」(朝日出版社)、共著に「こんにちは未来」(黒鳥社)などがある。近刊に、消費者の目線で書かれた環境問題に焦点を当てた「Weの市民革命」(朝日出版社)。>

(5)「COLUMN

<フェアに世界を見つめるクロエ・ジャオの、
開拓者精神に満ちた愛すべき作品>(長島有里枝・写真家)

 写真をはじめ、小説、インスタレーションなど、多様なメディアを通じて、社会における「家族」や「女性」のあり方に自身の違和感を率直に投げかけ、問題意識を若い層にも伝える写真家の長島有里枝さん。彼女は、大学卒業後の1995年に渡米。1999年にはカリフォルニア芸術大学にてMaster of Fine Artsを取得している。20代に身を置いて感じたアメリカの美しさと厳しさは本作の物語とも共通項があると語る。ノマドたちが手にした生き方に長島さんは、なにを感じたのか。インタビュー形式で語ってもらった。

・・・まず、ご覧になって率直にどのような印象を持たれましたか?

 「アメリカは私にとって、第二の故郷のような思い入れがある国ですが、本作には、自分が普段あまり接する機会のないアメリカ人が登場します。素朴で、自然を愛していて、日本育ちの私には理解し難いような、自由への強いこだわりを持つ人々です。監督が“開拓者精神”と呼んでいるのはきっと、彼らのそうした性質のことだろうとピンと来ました。登場人物の多くは決して裕福ではない層の人たちだと思うのですが、なににも縛られたくないし、誰にも自分のことを決められたくないという、孤高の精神を持った人たちでもあります」

・・・高齢になっても家を持たず、仕事も住処も転々としながら遊牧民のように生きる彼らはどのように感じましたか。

 「彼らの行動は、一見すると自身で選び取った“生き方”であるように見えます。けれども、本当にそうなのだろうかと、彼らの気高さの背景にあるアメリカ社会の陰についても考えずにはいられません。主人公のファーンを含む一部の人以外、登場人物はプロの役者ではなく、本当にノマド生活をしている人々ですが、彼ら自身の語りを通じて、彼らの生きてきた人生の厳しさや、乗り越えられなかった悲しみが明かされていきます。例えば、スワンキーという女性は、12歳から働きづめなのに年金は500ドルちょっと、だからもう働かないのだとファーンに語ります。おそらく、それらは台本ではない、本物の語りだと思われます。

 昨年のBlack Lives Matter運動や1月の国会議事堂襲撃事件など、最近アメリカで起きていることの背景についても考えさせられました。アメリカ内陸部に、地元企業の破綻と共に消えてしまう町があることはほとんど知られていません。新自由主義社会では貧困は“自己責任”だとされますが、そこに人々の善意を利用する政府や富裕層の影があることを理解しなければ、昨今の問題の根本的な解決には結びつかないと思うんです。この映画は、そこにきちんと踏み込んで、特殊なコミュニティを築く人々の性質や、心のなかを映そうとしています。このタイミングで本作を観ることができて、よかったです」

・・・以前、長島さんのインタビューでも触れられていましたが、ヴァージニア・ウルフは、女性には「経済的自立と精神的独立が必要不可欠」と記しています。本作では、女性に限りませんが、社会の仕組みが阻む経済的自立と、自らを癒やす方法も含めて精神的な自由について描かれているように思いました。

 「先ほども言いましたが、彼女たちの魂がそうであるほど暮らしが自由かというと、そうではありません。彼らの家である車のタイヤがひとつ潰れただけ、エンジンひとつ壊れただけで、生活が立ち行かなくなってしまう。彼女たちの生き方は、実はとても少ない選択肢の中から選び取られたものです。ファーンにとってもそれは同じで、姉やボーイフレンドと暮らすことは考えられない彼女に、車上生活以上の選択肢はなかった。その切実さに気づいてもらえたらと思います」

・・・そんな選択肢がないなかでも、彼女たちはたくましく生きています。

 「そうですね。そのうえ、彼女たちは幸せだと感じているだろうし、訊いたらそう言うだろうとも想像します。タフなだけでなく、とてもポジティブです。私自身は、フィジカルな心地よさを後回しにしても精神的に自由でありたいとは思える自信がないので、尊敬する部分でもあります。映画で描かれていたようなコミュニティが存在するのも、アメリカらしいと感じました。マリー・エレン・マークという写真家の夫が作った『Streetwise』という映画を思い出しました。シアトルで暮らすストリートチルドレンが、路上のコミュニティでサバイバル・パートナーを見つけ、生き延びる様を描いた作品です。本作でも、ファーンはたまたま居合わせた人と地縁関係以上の交流を持ちます。血縁ではない“家族”のありかたの多様性はアメリカ的だと思います

・・・ほかに好きな場面はありますか?

 「国立公園で働き始めたファーンが観光ツアーに参加し、ガイドの話を聞かないで岩だらけの砂漠の奥にどんどん入っていくシーンですね。ハリウッド的には、なにか悪い事件が起きそうな展開ですが、特になにも起こらないんです。ただ、一人きりで岩の中に立っているだけ。監督は、この映画に意味のない暴力を絶対登場させませんでした。そこが一番、この映画で感動したところかもしれません。誰も傷つけ合わないし、話を“おもしろく”するために女性の主人公を苦境に立たせたりしない。クロエ・ジャオ監督はとてもフェアな人だと感じました」

・・・ジャオ監督自身も「普遍的な人間の物語にしたかった」と語っています。いま、才能が注目を集め、女性監督であることを強調される立場にいる彼女だからこそ“女性視点”だけでははい物語を描いた意味を感じます。

 「“女性”監督であること自体は悪いことではありません。女性であるということで、作品やアーチストに対する評価が変わる、ということが問題なのです。女性として生きてきたことが作品に影響することも当然で、むしろ良いことだと思います。問題は、作品を“女性性”と結びつけて語りたがるメディアや批評家のバイアスがかかった視線にあると言えるでしょうね。

 ジャオ監督は中国出身ですが、だからアメリカのことはわからない、アメリカの話は描けないということはないと思いますよ。女性とか、東洋人とか、役割を背負わされがちかもしれませんが、そんなことが、この作品の良さを揺るがすことはないと思います」

<Profile・長島有里枝(写真家)・・・1973年生まれ、東京都出身。1993年、武蔵野美術大学在学中にデビュー。1999年、California Institute of the Arts にてMFA修了。2001年、第26回木村伊兵衛写真賞受賞。2010年『背中の記憶』で第23回三島由紀夫賞ノミネート、第26回講談社エッセイ賞受賞。2015年、武蔵大学人文科学研究科博士前期課程修了。アイデンティティや女性のライフコースに焦点を当てた作品づくりを行っている。2020年に『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林)、『Self-Portraits』(Dashwood Books)を上梓。