2021年5月31日第220回「今月の映画」「彼らは生きていた」

(1)世界大戦は第一次世界大戦(1914年~1918年)が最初のようです。今回の映画は、映画のための撮影ではなく、第一次世界大戦に従軍した人の実際の映像なので、驚くほど残酷です。

 昭和の時代、戦争体験者の「戦友会」が盛んでしたが、この映画を見ると、その意味がよく分かります。戦争の体験がいかに悲惨だったか、戦後の平和な時代にいくらその説明をしても、いや、悲惨すぎて、説明のしようがなく、そのために、唯一、戦友同士が集まってワイワイ騒ぐ以外になかったことと思われます。

 第一次世界大戦は、さらに悲惨だった可能性があります。その悲惨な戦争体験の生のフィルムを、現在に甦らせるための努力は大変なものだったのでしょう。その第一次世界大戦を終わらせた大きな理由の一つに、今の時代と同じ「スペイン風邪」だったようです。

 今回は少し長いですが、じっくりとご覧ください。

 まず、下記の「」は、第一次世界大戦について書いている≪≪「歴史から新元号の今を見る『日本史縦横無尽』」保阪正康氏、日刊ゲンダイ、2021年4月17日~≫≫を紹介してから、次に、今回の映画「彼らは生きていた」を、パンフレットから紹介したいと思います。

 

<略>第一次世界大戦の戦闘は1916年、あるいは17年と続く。戦場は悲惨そのものであった。イギリス、フランス軍の側も、ドイツ軍もひたすら塹壕で戦う塹壕戦となっていった。兵士たちは塹壕で眠り、食事をし、砲弾を撃ち合い、運が悪いと塹壕で死ぬという戦争であった。

 次第に砲弾を飛ばし合い、相手を抹殺することだけが戦争目的となった。やがて戦場には毒ガスが登場して殲滅戦の様相も強めていった。第一次世界大戦はそれまでの戦争の形態を全く変えていったのである。 

 日本と中国の抗争はこうした戦争から何も学ばず、やがてツケが回ってきたのである。(「歴史から新元号の今を見る『日本史縦横無尽』495回」保阪正康氏、日刊ゲンダイ、2021年4月17日)

ベルダンの戦いはフランス軍がドイツ軍の攻撃を持ちこたえて、死守する形になった。この作戦は徹底していて、フランス軍は兵力の8割を戦いにつぎ込んだというのであった。1916年2月に始まった戦闘では、年末近くまでの戦いで両軍の使用した砲弾は1000万発に達したという。戦場は砲弾跡のため凹凸の激しい地になった。塹壕や草原に戦死者の遺体が氾濫し、埋葬もできない状況の中、戦闘が続いたのである。<略>

 この作戦はイギリス軍が中心になり、ドイツ軍と衝突した。1916年6月からの攻撃は当初、イギリス軍が200万発近くの砲弾を撃ち込んだ後に歩兵が進んだ。しかしドイツ軍は塹壕を10メートル以上も掘っていて、砲弾を避けていた。ドイツ軍が巧妙にイギリス兵を待ち受ける形になり、戦闘は悲惨になった。

 前述の「フランス史」は「英仏連合軍(イギリス軍が中心だが)の前進は消耗戦の恐るべき膠着状態に陥ってしまった。戦死者は英仏側で61万5000人、ドイツ側で65万人であった」と記している。凄まじい消耗戦であった。

 これほどの戦死者を出す戦争とは何だったのか。どの国にも戦争に対する批判が渦巻くようになっていく。第一次世界大戦は国民世論の声も大きくなり、軍事指導者は国民を説得できなければ戦争などできないと、どの国にあっても指導者は次第に世論に怯えることになった。(『日本史縦横無尽』501回)

<略>チャーチルは、ドイツはアメリカが参戦する意味を知らなかったのだと書いている。「1億2000万人の人々(保阪注・アメリカ国民のこと)の戦争を遂行せんとする努力」は、疲労している連合国と同盟国との間の戦争を終わらせる重要なポイントだというのであった。ドイツがアメリカの客船なども敵対行為に数えて撃沈させたのは甘い考えだったということにもなる。なぜなら怒りの結果として、アメリカは当然のごとく本格的参戦を決意したからであった。<略>(『日本史縦横無尽』504回)

第一次世界大戦の帰趨が決した背景にはいくつかの事情がある。その最大の理由はアメリカの連合国軍への参加である。戦況が次第に深まってくると、国家総力戦という名の殲滅戦になっていった。つまり相手側の非戦闘員を含め、敵国民の殲滅、それに国家の機構や制度の解体と何から何まで破壊し尽くし、国家自体が存立し得ないような 状況をつくるのが勝利だったのである。それゆえ戦争は残酷な人為的所業に転じていたのだ。

 ドイツ海軍は1917年からは、潜水艦をフルに利用してイギリスを支援する各国の輸送船や商船を撃沈する作戦を採用した。イギリスへの物資輸送を断ち切り、イギリス国民の戦意を喪失させるというのが狙いであった。これは間接的にメリカへの牽制でもあった。この作戦が発動されると、アメリカはドイツとの国交断絶に進んだ。ドイツにとって、アメリカはまだ戦争という面では未知数の国であり、その戦力もそれほど高くは評価していなかったのだ。実際にドイツの潜水艦によって商船などの被害が増えるとアメリカはドイツに宣戦布告を行った(1917年4月)。

<略>アメリカの持つ国力は、この第一次世界大戦により再確認され、建国からの歴史を踏まえて、いわばアメリカの世紀になっていったのである。 <略>

 アメリカのウッドロー・ウイルソン大統領は、もともとはプリンストン大学の総長を務めて大統領になった人物であった。第一次世界大戦が始まったときはすぐに中立を表明して、和平の道を探ろうとしていた。参戦後になるのだが、1918年1月には「14カ条の提案」を行っている。これは議会に発した教書で、国際的な連合の創設なども提言している。これが講和の道筋をつけることになった。(『日本史縦横無尽』510回)

●スペイン風邪の流行は、第一次世界大戦の終結が早まった原因にはなっている。前線ではこの病によって、兵士の士気が著しく下がったというし、戦争への嫌悪感も広がったといわれているほどだ。<略>

  このスペイン風邪という感染症はA型インフルエンザといわれている。ヨーロッパの参戦国は流行の広がりを公表することは、軍事的に得策でないとして、その実態については伏せている。スペインが中立国であったため数字を公表したので、「スペイン風邪」といわれるようになった。(『日本史縦横無尽』513回)

<略>「(1918年)3月の大攻勢から、9月末までの西部戦線におけるドイツ軍の損失は、死傷者・行方不明・捕虜を含め、134万に達した。ドイツ軍は兵員を補充できない22師団を解体しなければならなかった」

 これに加えてスペイン風邪が、ドイツ軍にも及んだ。アメリカ軍の戦死者数は総数で11万人余といわれているが、その多くがスペイン風邪とされているように、ドイツ軍兵士も患者数は50万を超えたといわれているほどである。(『日本史縦横無尽』514回)

(2)「INTRODUCTION」

 <第一次世界大戦のモノクロ映像を見事に3D化>

 イギリス帝国戦争博物館に所蔵されていた第一次世界大戦中に西部戦線で撮影された数千時間に及ぶモノクロ戦争映像から、約100時間の映像資料を選び出し、映像の修復とカラーリング、音声を加えて3D映像化することに成功した。第一次世界大戦の終結から100周年を記念した事業として2018年10月のBFIロンドン映画祭での上映を目的とされたのが本作だ。

 ピーター・ジャクソン監督は、BBCが所蔵していた退役軍人のインタビュー音声を使用し、アメリカのスタジオ、ステレオDにてカラー化を行い、映像と組み合わせる作業を行った。1秒13フレームや16フレームなどバラバラなスピードで撮影されていた当時の映像を現在の24フレームに修正し、フィルムの無数の傷をデジタルで修復する、という膨大な時間を要する長時間のプロジェクトになった。

   近年、各国で古い映像をカラー化する試みは行われているが、アカデミー賞監督を起用して、豊富なイマジネーション、細部に徹底的にこだわり、これほどの規模と緻密な作業でレストア作業を行った例はなく、その仕上がりは他の追随を許さない。

 <兵士の声もリアルに再現>

 1914年大戦当時、映像は撮影できたものの、音声を録音する技術が無かったため、撮影当時の音声は残っていない。ジャクソン監督は、BBCに保管されていた、戦争後に収録された600時間に及ぶ約200人の退役軍人たちのインタビュー音声素材から、それをナレーションとして映像と合わせた。

 さらに訛りのある英語を話せる人間たちから新たにセリフを収録し、限りなく戦争当時の兵士たちの音声を再現することに成功した。ジャクソン監督は『ロード・オブ・ザ・リング』でも一緒に仕事をしたパーク・ロード・ポスト・プロダクションのスタッフをショットに重ねた。

 <Rotten Tomatoes 100点満点!アメリカで1800万ドル越えの異例の大ヒット>

 2018年10月にBFIロンドン映画祭で上映されたところ想像以上の反響があり、11月にイギリスで劇場公開された。BBCでのテレビ放送を経て、翌1月にはアメリカのニューヨーク、ロサンゼルス、ワシントンDCの3都市の劇場で限定公開されたところヒット。2月には全米で拡大公開を行ない、1800万ドルを超える大ヒットになった。2019年に公開されたドキュメンタリー映画として1位の興行収入を記録。

 アメリカ、カナダで公開された後、世界中での公開が続々と決まり、各国の批評家、観客からは絶賛された。Rotten Tomatoesでは驚異の100点満点を獲得し、映画サイトIMDbでも8・3と高評価を獲得している。

 <『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのピーター・ジャクソン監督渾身の一作>

 自身の祖父が第一次世界大戦の兵士だったこともあり、子供のころから大戦に関する本を読みふけっていたジャクソン監督は、ハリウッドの劇映画としではなく、よりリアルな戦争記録映画製作としての企画に没頭した、という。

 4年にわたる修復作業の結果、戦争召集の場面から、西部戦線の戦場、砲撃、つかの間の休息や食事の様子までも盛り込まれており、死と隣り合わせの状況でも笑顔を見せる兵士の姿が非常に印象的。

 突撃の様子、迫力ある爆撃、塹壕から飛び出す少年兵たち、戦死した仲間を埋葬するシーンなどの映像は、モノクロからカラーに変わった途端、100年前の映像と思えないほど豊かな表情と戦場の緊迫感にあふれ、観る者に迫ってくる。兵士たちは、確かにそこで生きていたのだ。これまで、遠い過去の話としてしかとらえていなかった第一次世界大戦の戦場が、監督のイマジネーションと最先端のレストア技術によって、身近に、生々しくスクリーンに映し出される。

 これぞまさに“映画の力”というべき、画期的な戦争映画が誕生した。

(3)「STORY」

 <第一次世界大戦 兵士たちが見た真実の戦場とは・・・>

 1914年、人類史上初めての世界戦争である第一次世界大戦が開戦。

 8月、イギリスの各地では宣戦布告の知らせと共に募兵を呼びかけるポスターが多数掲出された。笑顔の兵士が描かれ“今こそチャンスだ 男たちよ 入隊を”などのキャッチコピーが入っている。志願資格の規定は19歳から35歳だったが、19歳に満たない大半の若者たちも「誕生日を変えろ」と言われるままに歳をごまかして自ら入隊。「祖国のために戦うのは当然」と愛国心で志願したと語るのは、かつての兵士。「周りが皆、志願していたので自分も行くべきだと思った」、「退屈な仕事から解放されたかった」と、よく分からないまま志願した者も多く、国全体が異様な興奮状態に包まれていった。

 彼らはその後、練兵場へ移動。朝は起床ラッパで目覚め、腕立て伏せや体操、ストレッチ、朝食後は午前中いっぱい行進する。重さ50キロはあるフル装具で行軍できるように鍛えることが目的だ。午後は機関銃や小銃を使った基礎訓練。6週間ほどで世間知らずだった青年たちも立派なイギリス兵へと成長した。重装備での行進は辛く、早く実戦で暴れたいと彼らが思った頃、ついに西部戦線への派遣が通達された。

 船でフランス入りしたイギリス兵たちは西部戦線に向かって行軍。どこを歩いているのか分からないほど進むと、射撃の音がかすかに聞こえ、ドイツ軍が近いと分かった。その後、イギリス兵たちは塹壕で監視と穴掘りに分かれて交代しながら勤務する。目に入るのは腸が飛び出た馬と頭を撃たれた兵や、有刺鉄線に引っかかったまま置き去りにされた死体。遺骸が腐っていく悪臭も日常になっていった。

 それでもイギリス兵たちは土の壁に横穴を掘っただけの粗雑な寝床で仮眠をとり、機関銃の冷却水を使って紅茶を淹れるなど、つかの間の休息を楽しむことも忘れない。死体が沈んだ砲弾孔の水や雨水をガソリンの空き缶に貯めて使うこともあったが「煮沸すれば大丈夫」と、ひどい環境でも皆笑顔を見せるのだった。悪夢のような日々が続くある日、秘密兵器である菱形戦車が登場し、彼らは勝利を確実にした。

 ついにやってきた突撃の日。兵士たちは遅かれ早かれいつかは死ぬか負傷する覚悟はできていた。突撃の命令で、塹壕を飛び出し、ドイツ軍の陣地へ前進。最初は信じがたいほどに迎撃がなかったが、こちらの出方を見ていたのだろう。いきなり射撃が始まり、仲間が次々と倒れて・・・・・。

(4)「監督・製作 ピーター・ジャクソン Q & A」

 <プロジェクトの始まり~制作過程について>

Q:このプロジェクトの始まりと、監督のアプローチからお聞かせください。

A:第一次世界大戦に関する映画の製作依頼は今までも何度かあったが、僕は今まで第一次世界大戦を劇映画で撮りたいとは全く思わなかったんだ。

 だが、約4年前、帝国戦争博物館から、終戦100年を迎える第一次世界大戦にまつわるドキュメンタリーに関心がないかと尋ねられた。彼らからもらった指示は、第一次世界大戦に関する作品ならば、どの側面に焦点を当てたものでもいいが、彼らの保管映像を使わなければならないというものだった。

 帝国戦争博物館は、第一次世界大戦時に撮影されたオリジナル映像の最大のアーカイブを保管していて、少なくても2200時間分もある。また、彼らのもうひとつの要望は、僕がその映像を独自の新しいやり方で使うということだった。僕はニュージーランドに戻って、僕たちが持っているデジタル技術によって、その100年前の映像をどんなふうに復元できるか考えはじめた。

 フィルムの復元は、これまでにもなされてきたわけだから、新しいことではない。だが、最新のデジタル技術を最大限に使って復元してきただろうか?僕は、こんなことを今までやったことがなかったので、成果は未知だった。

 そこで、帝国戦争博物館に3、4分のフィルムを送ってもらって試してみることにした。そして、ニュージーランドのパーク・ロード・ポスト・プロダクションで、2、3ヶ月かけて、100年の間にもたらされたあらゆる損傷を消す方法を見つけ出そうとした。多くの場合、帝国戦争博物館が持っているフィルムは複製や複製の複製、あるいは複製の複製のそのまた複製だったので、画像の質はもとの映像より劣るわけだ。一度押したらすべてが直るような魔法のボタンなんてない。すべての損傷がそれぞれ独自の解決策を必要としていた。その後、記録映像を復元できることがわかり、僕が長年制作を待ち望んでいたような第一次世界大戦の映画を作ることになったんだ。

Q:映像のスピードを変えたプロセスについてお聞かせください。

A:フィルムのスピードを解決するのには、かなり時間がかかった。元の映像は、毎秒約16フレームで撮影されていたと思っていたが、それは誤りだとすぐに分かった。大部分のフィルムは毎秒約14フレームだが、10からたまに15や16までの何でもありで、まれに17か18のものもあった。これほどバラバラのスピードを、もとの映像がどんなスピードで撮影されたか分からないままで、現在僕たちが使っている毎秒24フレームにすることはできない。

 僕たちはそれをデジタル技術のプロセスにかけて、翌日24フレームで見ると、少し早すぎるか遅すぎるか、ちょうどいいかだった。スピードは、良いときもあれば悪い時もあったんだ。存在していなかったフレームは作る必要があった。前のフレームと後のフレームをとって推定をして、存在しているフレームの素材を使って人工的にフレームを作った。そのプロセスがうまく行った時は感動した。出来映えには、もうびっくりしたよ。本当に興奮した。

Q:ナレーションに、退役軍人の声を使った経緯についてお話しいただけますか。

A:映像を復元して、男たちの顔がとてもはっきり見えるようになったとき、僕はオーディオ・サウンドトラックがその場にいた男たちの声だけであるべきだと思った。歴史学者や司会者が塹壕を歩きながら第一次世界大戦を語る声ではだめだ。その男たちは、その戦争がどんなものだったかを僕たちに説明する者でなければならない。

 それで、帝国戦争博物館とBBCに戻って、彼らが第一次世界大戦の退役軍人に行ったインタビューの録音か口述記録がないか尋ねた。驚いたことに、250人から300人くらいの退役軍人の600時間もの話を僕たちは最終的に入手することができたんだ。

 数百時間の音声を聞くのに時間がかかるのはもちろんだが、僕たちはすべてを聞くまでは映画を作れなかった。だから1年半くらい、仕事の多くは、フィルムを見て、テープを聞き、この映画がどうあるべきかをゆっくりと見極めることだった。そして、その作業の最後には、とても簡単なことのように思えた。

 この映画は、第一次世界大戦で歩兵として戦うことはどのようなものであったかという、平凡な男の経験でなければならない。この男たちが語っていることは、僕の祖父や、誰もの祖父や曾祖父が経験したであろうことだ。この映画を通して彼らの人生を理解するようになるだろう。

Q:ナレーション以外の音声とサウンド・エフェクトについてもお話いただけますか。

A:現代の映画でも音声の大部分が完成するのは撮影後だ。セットで録音していても、生の音声では普通はあまり使いものにならない。それに、視覚効果がすべて揃っているわけでもないし、それらにはサウンドトラックもないので作らなければならない。それで、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの音響でアカデミー賞を受賞したパーク・ロード・ポストの同じメンバーに「第一次世界大戦の映像のために同じような仕事をしてほしい」と頼んだ。

 僕たちは、ありとあらゆる音が欲しかった。木々に吹く風から、泥のなかを行く足音、装備がジャラジャラと鳴る音、ライフルのボルトを操作するカチャカチャという音、馬のひづめの音、革のこすれる音・・・繊細な音の上に繊細な音を重ね、様々な音の数十個のサウンドトラックを、ひとつのショットにすべて重ねるんだ。

 その結果、映画をみる人は、あの日に聞こえた音を聞いているように思うのだ。それが、僕のやりたかったことだ。あの兵士たちがカラーで戦争を見たのと同じように、もちろん音のある戦争を体験したのだ。僕はできるだけ、兵士たちが聞いていた音の印象を作りたかったので、それは兵士たちの会話にまで広がった。

 読唇術のプロの所に行って、フィルムで兵士が何かを話しているのがはっきり分かるショットをすべて渡して、何をしゃべっているか鑑定してもらった。そして僕たちは、当時の兵士たちのなまりに正確になるように、連隊の出身地であるイギリスの特定地域出身の役者を見つけた。なぜなら、なまりは実際にしゃべるときのリズムにとって不可欠な要素だからだ。声を付け加えると、素晴らしい出来だった。声は、映像に驚くほど命を吹き込んだ

<略>

(5)「『彼らは生きていた』について」(山崎 貴・映画監督)

 私たちは通常、第一次世界大戦の映像に触れるとき、撮影レートの低いフィルム(秒18コマとか)を現代の秒24コマの上映環境に無理矢理押し込められたものを観させられている。長い間、コマとコマの間の絵を補完するなんてことは不可能だったから、18コマで撮影されたものをそのまま24コマで上映すると、当然だが足りない分動きが速くなり動きがチョコマカしたものになる。

 これがあのコミカルな動きの正体だ。その動きと、そもそもモノクロフィルムでしか撮られていないせいで私たちは潜在的にチャップリンやキートンの動き(これだって本来の動きじゃないのだが)との共通点を見つけ出してしまい、なんだかあの頃の人たちは面白い動き方をしていたんだなと潜在的に思ってしまっている。

 それは理性の部分ではもちろん現実はこうじゃないとわかっているのだが、どうにも遥か昔の別世界の人間たちを観ているようで、自分の居る現代とは遠く隔てられたおとぎ話のように感じてしまっている。

 今回この作品『彼らは生きていた』ではそれを現代のコンピューター技術を駆使して、足りないコマを新たに作り足して補完している。つまり、カメラの前で起きていたことを本来のスピードで観ることを可能にしているのだ。

 さらに色彩が加えられ、環境音も台詞も予想される物を新たに付け加えられている。その結果、予想以上の効果が発生していた。

 なんとも生々しい、普通の人間としての生き様がそこにあふれていた。その表情や動きから、この人たちは確かにそこに生きて、悩み、恐怖に打ち震えていたのだということが等身大で伝わってくる。彼らは我々現代を生きる人間と何ら変わることが無い生身の人間なのだということが・・・。

 開幕すぐは映画は従来通りのフレームの足りないカクカクした映像を見せられる。それがしばらく続き、すっかり目が慣れた頃、本来狙っていた滑らかな24コマフルカラーの映像に変わる。この瞬間が本当に素晴らしくて息を飲んだ。まるでぼんやりとした記憶を探っていたら、それがある瞬間を境に本物の実体験になったかのようだった。いままでの実像とのギャップが引き起こすその映像の生々しさは、何というか自分の体験を映像化して見せられているかのようだった。記憶にない体験・・・でもその中に確かに自分がいたかのように感じられる不思議な感覚だった。

 その前提で見せられる兵士たちの楽しそうな姿には、とても親近感と同時に違和感を覚える。これは第一次世界大戦を扱ったドキュメンタリーなのだ。しかしかなり長い時間、兵士たちの楽しそうな姿と証言が続く。一体これは何なんだと頭は混乱する。彼らは戦場に行くことを楽しみにさえ思っているのだ。辛い日常から抜け出し、ワクワクする冒険に出かけるかのように語る彼ら・・・映像は訓練中も戦地にたどりついても、その浮かれた気分を隠さない。だがそれはこの作品の巧妙な罠だった。延々と映し出される戦場のキャンプのような楽しさ。それが敵陣に向かって銃剣での突撃を命じられたとき、映画の空気は一変する。

 すさまじいドイツ軍の機関銃による攻撃。炸裂する砲弾。何の防御もない歩兵の運任せの突撃。一緒にサッカーをして育ち、今も隣を走っている友人の無残な突然の死。

 この戦闘に至るまでの彼らの事を知っているからこそ、この突撃の恐怖は鋭いナイフのように心に迫る。楽しそうに笑う彼らの映像と、その死体が交互に映しだされるシークエンスが続く。しつこいほどに繰り返されるこの反復。そこから浮き上がってくる恐怖。ずっと一緒に笑っていた人たちが、みるみるうちにただの物体に変わってしまう。それが戦争なんだと教えてくれる。声高に叫ばれる反戦より、ずっと心の奥深いところに差し込まれる戦争に対する嫌悪感。作り物じゃない。本物の戦争の恐怖。きな臭さを増している今の時代にどう対処するべきかを考えるためにも、この作品を劇場で体験することをお勧めしたい。