2021年3月31日第218回「今月の映画」「ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実」
監督:トッド・ロビンソン キャスト:セバスチャン・スタン アリソン・スドル ウィリアム・ハート
ジェレミー・アーヴァイン クリストファー・プラマー サミュエル・L・ジャクソン
(1)ベトナム戦争時は私・藤森が若い頃で、「ベトナム戦争反対」はかなり叫ばれていた時代です。そういうベトナム戦争でアメリカ国内は・・・
≪≪C中隊の衛生兵が負傷し、味方の戦傷者に医療を施す者が地上にいないことを知ったピッツは、仲間の心配をよそに、自らの意思で敵弾飛び交う最前線の真っ只中に降り立った。ベトナムD800大隊の熾烈な攻撃を受けて、C中隊は最後の手段である円形防御陣地を構築して戦い続ける。だがその陣地の外には、まだ負傷兵が取り残されていた。 それを知ったピッツは陣地を飛び出し、敵の眼前に孤立していた負傷兵数名の救助に成功。加えて、陣地内の負傷兵たちに、応急手当を施して救難空輸されるまでの延命に尽力した。 ベトコン側の攻撃がさらに激しくなる中、陣地の外にさらに取り残されている負傷兵を救出すべく、ピッツは自ら銃を片手に再び敵前へと向かった・・・≫≫ これほどの大活躍をしながらも、「ベトナム戦争反対」という時代の流れがあり、大活躍をした戦死者が叙勲されなかったり、PTSDに悩む元兵士たちは生きるのに苦労したようです。 この映画のラスト・・・1999年、ペンタゴン空軍省の官僚のハフマンは、30年以上も請願されてきたある兵士の名誉勲章授与の調査を行うことになり、苦労の末に授与になります。その叙勲式で、映画の最後の場面でもある・・・司会者が最後の時間を使って、関係者・救ってもらえた元兵士や関係者、身内の方々にその場で立ち上がってもらうシーンは、涙が止まりませんでした。 少し長いですが、悲惨なベトナム戦争を少しでも、ご理解いただくために、じっくりとご覧ください。 |
(2)「ラスト・フル・メジャーの由来」
エイブラハム・リンカーン 87年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、人はみな平等に創られているという信条にささげられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。 今われわれは、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる国家が、長く存在することは可能なのかどうかを試しているわけである。われわれはそのような戦争に一大激戦の地で、相会している。 われわれはこの国家が生き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげるためにやって来た。われわれがそうすることは、まことに適切であり好ましいことである。 しかし、さらに大きな意味で、われわれは、この土地をささげることはできない。清めにささげることもできない。聖別することもできない。足すことも引くこともできない、われわれの貧弱な力をはるかに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々がすでに、この土地を清めささげているからである。 世界は、われわれがここで述べることに、さして注意を払わず、長く記憶にとどめることもないだろう。しかし、彼らがここで成した事を決して忘れることはできない。ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きているわれわれなのである。 われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのである。・・・それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである。 |
(3)「INTRODUCTION」
本作は、ベトナム戦争の英雄であるウィリアム・H・ピッツェンバーガーについての実話である。彼は、アメリカ空軍の落下傘救助隊の医療兵として60人以上の兵士たちを献身的に救い、多くの血が流れたベトナム戦争で戦死した。 1966年4月11日の救出作戦で、戦線から発つ最後のヘリコプターで脱出するチャンスがあったにも関わらず、ピッツェンバーガーは残された兵士たちを救うために留まった。激戦の最前線で弾丸を浴びて、仲間たちのために自らの命を犠牲にした。 この英雄たる行いを評して、ピッツェンバーガーは一兵士が授かれる最高位の勲章である「名誉勲章」を推薦された。この勲章は、義務を超えた個人の勇敢な行為に対して与えられる。しかし、彼への名誉勲章授与は却下されてしまう。なぜ、名誉勲章は授与されなかったのか。なぜ、30年以上もの間、戦友たちは英雄への名誉勲章授与を求め続けたのか。 1999年、30年の時を経て、ペンタゴンのエリート職員スコット・ハフマンが調査を担当することになり、その真実に迫る。主人公スコット・ハフマンを演じるのはマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)においてキャプテン・アメリカの親友バッキー・バーンズ役で人気のセバスチャン・スタン。
(4)「STORY」 1999年、ペンタゴン空軍省の官僚のハフマンは、30年以上も請願されてきたある兵士の名誉勲章授与の調査を行うことになる。1969年のベトナム戦争下、空軍落下傘救助隊のピッツェンバーガーが敵兵の奇襲を受け孤立した陸軍中隊の救助にヘリで向かうが、あまりにも激しい戦闘のためヘリは降下できなかった。すると彼はその身一つで地上に飛び降り、自らの命は顧みず負傷兵たちを救出していくが、ついに銃弾に倒れてしまう。 戦後、ピッツェンバーガーの両親と戦友タリーは、彼の功績は、名誉勲章授与にふさわしいと何度も軍に働きかけるも却下され、彼の武勲は叶わないままだった。 はじめは気乗りしないハフマンだったが、歴史に埋もれた英雄を知る退役軍人たちの証言を求めてアメリカ各地からベトナムのハノイまで調査を進める。やがて、ピッツェンバーガーの並外れた勇気ある行動を知るに及んで、大きく心を動かされる。そして、彼に名誉勲章が授与されなかった背景に驚くべき陰謀が隠されていたことに気がつくのだった・・・。 |
(5)<ベトナム戦争とアメリカ~「ラスト・フル・メジャー」の世界をより深く理解するために>~(白石光・戦史研究家)
ベトナム戦争を描いた本編を観る前に、あるいは観た後に、改めてこの戦争のことについて、その輪郭を再確認するのも興味深いのではないだろうか。 ごく簡単、かつ、大雑把な概説ではあるが、その一文が本編鑑賞に際しての参考になれば幸いである。 ■「巨象対鼠」・・・第二次大戦後、世界はソ連が主導する東側と、アメリカが主導する西側陣営に大きく分かれた。そして両者の間で、弾が飛び交う実際の戦争でこそないが、一歩間違えばそれに至りかねない強い対立が生じ、「東西冷戦」と称された。長きに及ぶこの東西冷戦の期間中、時に両者は、それぞれが支援する国と国の武力衝突により、いわゆる「代理戦争」を起こしたが、同大戦後、「朝鮮戦争」に続いて起こった大きな代理戦争が「ベトナム戦争」であった。 ベトナムを含むインドシナは、長らくフランスが領有していた。しかし第二次大戦後、民族主義と共産主義を背景とした独立運動が激化。戦後、フランスはその抑え込みを図ったものの(「インドシナ戦争」)、自身の国力が疲弊し継戦が困難となった。そこで共産主義の拡散を封じ込めるべく、アメリカが介入してベトナム戦争が起こったのである。 しかし、ベトナムにのり込んだ頃のアメリカ軍は、いつ「熱戦」へと移行するかもわからない「東西冷戦」の中で、大国同士が真っ向から衝突するシナリオを主に描いており、そのような全面戦争に向けた大量の兵器と兵力を整えていた。ところがベトナムは、少ない兵器を神出鬼没のゲリラ戦で補い、アメリカ軍を痛撃した。 かような理由で、ベトナム戦争は「巨象対鼠」、すなわち「大国アメリカ対小国ベトナム」になぞらえられることもある。強大な力を備えているが機敏さに欠ける巨象に対して、個々の力は弱いが敏捷な鼠が複数ちょこまかと巨象の弱点を襲って弱体化させる。 その過程で、暴れ狂う巨象にたくさんの鼠が踏み殺されたりするだろうが、そこは鼠の数にものをいわせて戦い続ける。おまけに巨象は、国際世論という「鎖」の「縛り」のせいで、最終手段たる大量破壊兵器も含めたその全力を発揮できない状態に、「暴れ方」を制限されていた。これがまさに、ベトナム戦争の大まかな構図といえよう。 ■「ベトナム戦争症候群」・・・さて、「共産主義の拡散防止」というアメリカの参戦理由は、かつて朝鮮戦争でも唱えられたものだった。同戦争はわずか数年で休戦となり、アメリカ兵の犠牲者も、第二次大戦に比べれば桁違いに少なかった。そのため、朝鮮戦争参戦を批判するアメリカの国内世論は、簡単にいえば、花開くことのない「つぼみ」で終わった。 ところがベトナム戦争は違っていた。最初は軍事顧問団、次にそれに加えて航空兵力、さらに加えて地上へ力、そしてそれらの増強、おまけにアメリカの同盟各国の兵力投入と、長期間にわたってだらだらと大兵力が投入され、それに比例して、犠牲者も増加の一途をたどったのだ。 その結果、アメリカ国内ではついに反戦世論が「大開花」。過去の戦争時には見られなかったか、わずかに起こってはいても、表面化しなかったさまざまな事態が生じた。 第一次と第二次の両大戦を通じて、アメリカでは戦場からの帰還兵は英雄として称えられるのが普通であった。さらに朝鮮戦争時もほぼ動様といえる。自分が帰属する地域社会に戻った帰還兵たちは、歓迎され、尊敬され、就職や社会生活において多少なりとも優遇されるなど、「戦場で命を賭けて戦って得た特権」をそこそこに享受することができた。 そのため、もし本人が戦争によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)を受けていたとしても、それを埋め合わせる代償効果や、自身のそれを隠そうとする傾向が強く、かような「心の闇」が社会的にクローズアップされることはほとんどなかった。 ところがベトナム戦争では、アメリカ世論が両極端に割れてしまった。片や、相変わらず国のために尽くした帰還兵を敬い英雄視する考え方の人々。 片や、長期化し多数の犠牲者を生んでいるこの戦争を、いわゆる「間違った戦争」として帰還兵をも含めて糾弾する考え方の人々。 本来、後者が責めるべきは戦争を推進した自国の政府であり、否応なく徴兵されて国の命令に従い戦ってきた帰還兵も被害者である。にもかかわらず後者は、本人が好むと好まざるとにかかわらず地獄の戦場で命がけで戦ってきた帰還兵にも、反戦の責めの矛先を向けた。 その結果、過去の戦争時とは異なり、社会に溶け込めない、あるいは社会が受け入れようとしない、PTSDを患ったベトナム帰還兵が社会問題化。それに加えて、アメリカがベトナムで行ったことへの反省など広義の範囲も含めて、「ベトナム戦争症候群(Vietnam Syndrome)」という語があてはめられることもある。 このへんについては、『ランボー』『ディア・ハンター』『タクシードライバー』『7月4日に生まれて』といった映画作品で、感覚的に感じ取ることができる。1975年4月のベトナム戦争終結以降、アメリカ社会は今日に至まで、長くこの「ベトナム戦争症候群」に苦しむことになる。もしこのような背景が存在しなければ、本作の主人公たるウィリアム・ハート・ピッツェンバーガーに対する名誉勲章の追叙も、戦後約25年を経てからではなく、より早く、しかもより容易に行われたかも知れない。 そして終結後約45年の歳月を経てもなお、ベトナム戦争は、アメリカ社会に暗い影を落とし続けているのが現実といえよう。 |
(6)<『ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実』の背景~アメリカ人にとっての「正しい献身」と「正しい感謝」の物語~>(白石光・戦史研究家)
■「自己犠牲と感謝」・・・本作品では、戦場という極限状態において発揮されたあるひとりの兵士の自己犠牲をともなう献身と、それによって命を救われた多くの兵士たちの感謝の思いが描かれている。あるいは、「正しいアメリカ人流の献身」に対する、「正しいアメリカ人流の感謝」と言い換えてもよいだろう。空軍殊勲十字章では絶対に足りない思いを、アメリカ軍人にとってそれ以上はない最高の栄誉、議会名誉勲章とするために。 20世紀にはアメリカが関与した戦争の中で、その是非を問う国内世論が真っ二つに分かれたベトナム戦争。この物語は、そんな戦いの最中に生まれた。 ■「『アビリーン』作戦発動!」・・・1966年4月、南ベトナムの首都サイゴン近傍のに駐屯していたアメリカ第1歩兵士団は、郊外に秘密拠点を構築して暗躍するベトコンの排除を企図した「サーチ・アンド・デストロイ」戦術に基づく、「アビリーン」作戦を立案した。 ≪アメリカ第1歩兵師団とは?≫・・・所属する将兵が肩に付けている師団マークが赤い大きな1の数字であるため、「ビッグ・レッド・ワン」の愛称で呼ばれる同師団は、1917年5月24日に創設されたアメリカ陸軍でもっとも古い常設師団で、常に第一線で戦い続けてきた部隊。そのため多くの映画にも登場し、往年の名優リー・マーヴィン主演でタイトルも『The Big One(邦題:最前線物語)』という、同師団第16歩兵連隊の将兵たちの第二次大戦における戦いを描いた作品すら存在する。もちろんベトナム戦争でも、同師団は数多くの激戦に投入された。 4月10日、第1歩兵師団所属で「レンジャーズ」の愛称で呼ばれる第16歩兵連隊の第2大隊C中隊は、ベトコンD800大隊の展開地域であるコートナイ・・ゴム農園で、囮となるための行動を開始した。このC中隊の動きにベトコン側が食いついたら、同大隊のA、B両中隊が来援して、逆にベトコンを殲滅する手筈だった。 ■「死闘の始まり」・・・結果、D800大隊は確かにC中隊に食いついた。ところが、意外にも濃密なジャングルとベトコンによる前進阻止の防戦に妨げられ、A、B両中隊の来援は遅延。おまけにC中隊は「アビリーン」作戦以前の戦いで生じた人的損耗が補充しきれておらず、兵員不足だったため苦戦を強いられた。 続出する死傷者と至近距離まで迫って来ているベトコンに対し、C中隊は苦肉の選択としてデンジャー・クロース(隣接至近距離):『デンジャー・クロース 極限着弾』なども参照されたし)での砲撃を要請。この砲撃は一応奏功したが、一部に味方撃ちが生じてしまった。増え続ける負傷兵に、誰かが急ぎ手当てを施さねば、その中から手遅れで戦死する者も出てくるに違いない。C中隊からの悲鳴にも似た救助要請に、空軍の第38航空救援中隊第6分遣隊が応えた。 ≪≪航空救難隊とは?≫≫・・・航空救援隊とは、元来は墜落したり不時着した航空機のクルーを救助する目的で創設された部隊で、ベトナム戦争時は、同国内と隣国タイの各航空基地に分遣隊を配し、ヘリコプターと水陸両用飛行艇を使って救難任務に従事していた。そして戦火の拡大にともない、作中のような地上部隊からの緊急救命要請にも対応するようになった。 ■「戦場への降下」・・・この時、戦場に向かった救難ヘリコプターには、パラレスキュー員のウィリアム・ハート・ピッツェンバーガー上等空兵(Airman First Class。略記はA1C)も乗り込んでいた。 ≪≪パラレスキュー員とは?≫≫・・・衛生兵と同等以上の医療知識を有するうえ、パラシュート降下やスキューバ潜水、さらに特殊作戦のためのスキルまで身に付け、その高度な技能をもって人命救助にあたる特殊救難員。必要に応じて乗機から地上に降り立ち、被救難者の傍らで救難作業を行うのが任務であった。 戦友たちからピッツの愛称で親しまれていたピッツェンバーガーは、高校時代には陸軍特殊部隊グリーンベレーへの入隊を志していたが、両親に反対されて卒業後は空軍に入った。だがそこで、グリーンベレーと同等以上のスキルを求められる空軍パラレスキューの存在を知り、それを志願したのだった。 C中隊の衛生兵が負傷し、味方の戦傷者に医療を施す者が地上にいないことを知ったピッツは、仲間の心配をよそに、自らの意思で敵弾飛び交う最前線の真っ只中に降り立った。D800大隊の熾烈な攻撃を受けて、C中隊は最後の手段である円形防御陣地を構築して戦い続ける。だがその陣地の外には、まだ負傷兵が取り残されていた。 それを知ったピッツは陣地を飛び出し、敵の眼前に孤立していた負傷兵数名の救助に成功。加えて、陣地内の負傷兵たちに、応急手当を施して救難空輸されるまでの延命に尽力した。 ベトコン側の攻撃がさらに激しくなる中、陣地の外にさらに取り残されている負傷兵を救出すべく、ピッツは自ら銃を片手に再び敵前へと向かった・・・。 <*本文中の「ベトコン」の表記は当時の呼称に準じたものです。ご了承ください。> |
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