2021年11月30日第226回「今月の映画」「ONODA 一万夜を越えて」と「交流分析の“脚本”について」

監督&脚本:アルチュール・アラリ 遠藤雄弥、津田寛治、仲野太賀、松浦祐也、千葉哲也、イッセー尾形

(1)今回の映画ONODA 一万夜を越えて」は、映画そのものもとても素晴らしかったのですが、私・藤森の日頃の立場から、極めて「驚き」の一面・・・見ることも、聞くことも、知ることも(通常は)全くできない、人生で一番重要な「脚本」「五蘊」「深層心理」がビジュアル化されている「映画」であることを発見しました。

 私のホームページをご覧の皆さんは、もちろん年代的に、フィリピンルバング島で発見された小野田寛郎元陸軍少尉のことをご存じだと思われます。

 ルバング島で終戦後、29年間も潜んでいたことは驚き以外にはありませんが、それよりもさらに驚くべきこと、「脚本」「五蘊」がビジュアル化されていることが発見できたのです。

 一般の皆様には、理解していただくことが困難を極める「課題」ですが、それが完全に「見える化」されていることに気が付きました。心理・精神世界で、理解していただくことが最も困難な「課題」を理解することが「自己成長」にとって最大・最高の「課題」ですが、この「課題」を私たちが理解できない、全く分からないために、≪≪人間は皆≫≫一生、私を含めて、ほぼ全員がバカバカしい人生を生きてしまい・・・がちになります。

 昨日(11月29日)、日大の理事長が逮捕されましたが、国会議員や大臣経験者が逮捕されたり、独裁をしたり、戦争をしたり、ありとあらゆるバカバカしいことが、この地球上に溢れていますが、何故でしょうか?

(一つの実例として、天下第一級の文豪・夏目漱石の驚くべき「生い立ち(脚本)」の事実(精神の異常性)をご覧ください。「今月の言葉第205回「ウイーケストリンクとは何か?⑥(夏目漱石③ー①)」、第208回「夏目漱石③ー②」、第209回「夏目漱石③ー③」)&(拙著のp261の異常性「息子を下駄ばきで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回した」と次男の夏目伸六氏の話・・・私・藤森は、漱石の「深層心理」が分かったので、この異常性を解説してあります。)

 それらの全ては「深層心理」「脚本」「五蘊」が明確になれば、必ず、その原因となるものを発見することができます。私(藤森)自身が半世紀をかけて、自分のアホさ加減を追及して、今やっと、まともな人間になりつつあるくらい「脚本=深層心理」の問題は「追及して解決」することは困難を極めます。ほとんど、精神異常の人生を送った夏目漱石より私は、少しは成長することができましたが・・・。

 下記の(2)(3)(4)(5)(6)の新聞などの紹介記事をご覧ください。その後の(7)で、私の驚きの「結論」をお楽しみください。

(2)ONODA 一万夜を越えて」(パンフレットが販売されていないため、映画館のチラシから)

 忘れない
 日本での終戦後もなお、秘密戦の任務を遂行するため
 約30年間、フィリピン・ルバング島で見えない敵と戦い続けた小野田寛郎         
 という男
 彼は何を信じ、何と戦い、そしてどう生き抜いたのか。

<STORY>1974年、ある青年旅行者(仲野太賀)は、幻の日本人・小野田寛郎(遠藤雄弥/津田寛治)に会いにフィリピンに向かう。時を遡ること約30年前、秘密組織の特殊訓練を受けた小野田はフィリピン・ルバング島にて秘密裏にゲリラ戦を指揮するよう命令を受けジャングルに潜伏していた。

 小野田は上官の谷口(イッセー尾形)から言い渡された「君たちには、死ぬ権利はない」という言葉を胸に、ジャングルでの壮絶な日々に対峙していたのだった・・・。

 <日本現代史に残る衝撃の史実より着想 家族の愛、友との誓い そして生きる意味を突きつけられる>

 1974年3月、小野田寛郎という日本人が約30年間潜伏していたフィリピンから帰還。当時はこのニュースが、1945年の終戦から取り残された「日本最後の兵士」など大々的に報道され、社会現象となった。この小野田さんの史実から着想を受け描かれた本作は、第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門オープニング作品として上映、会場では異例の15分以上ものスタンディング・オベーションを受け、ついに日本公開決定。日本人キャストはオーディションから製作に参加、小野田寛郎を演じる遠藤雄弥と津田寛治はもちろん、嶋田久作やイッセー尾形といった世界に誇るベテラン俳優から仲野太賀ら日本映画界の未来を支える俳優達が迫真の演技を魅せる。時空を超えてなお、我々の胸を強く締め付ける物語。

<小野田寛郎>1922年3月、和歌山県亀川村(現・海南市)生まれ。旧制中学校卒業後、商社員として「田島洋行」漢口(現:武漢)支店勤務。1944年11月に陸軍中野学校二俣分校を卒業、その後フィリピン・ルバング島に派遣され、遊撃指揮・残置諜者の任務を与えられる。以来、30年間任務解除の命令を受けられないまま戦闘を続行。1974年日本に帰還後、翌年にはブラジルに移住。2014年1月16日、肺炎のため死去、91歳没。

(3)「ONODA 一万夜を越えて」(日刊ゲンダイ、令和3年10月13日)

 <小野田寛郎元少尉の潜伏生活を描く長編劇映画>

 1974年といえば団塊ジュニア世代の最後の生まれ年だが、実は戦後ニッポンの象徴的な事件が起きた年でもある。敗戦から28年余にわたり、「徹底抗戦」を信じてフィリピンの密林に潜んだ小野田寛郎元少尉の帰国である。

 先週末封切られた「ONODA 一万夜を越えて」はこの潜伏生活を描く長編劇映画。監督は”弱冠“40歳のフランス人アルチュール・アラリだ。

 とはいえ特別な思い入れなどはないらしく、8年前にフランスで出たノンフィクションを読んだのが映画化のきっかけだという。それゆえ、70年安保闘争も三島由紀夫事件も忘れて奢侈安逸にふけるあの当時の日本社会が受けた、名状しがたい衝撃や痛覚などは望むべくもない。東南アジアのジャングルのうだるような炎熱も伝わってはこない。

 その代わりといってはなんだが、40代以降の小野田少尉を演じた津田寛治が強烈に目を引く。信念に凝り固まった残置兵士の、痩せ細って鬼気迫る姿。おそらく彼の俳優人生で最高というべき熱演と存在感といってよいだろう。

 五十嵐恵邦「敗戦と戦後のあいだで」(筑摩書房 1870円)は、小野田少尉をはじめ、その2年前に帰国して大きな話題となった横井庄一元伍長やシベリア抑留から帰国した詩人・石原吉郎のほか、戦後の映画や小説に描かれた復員兵たちの姿を列伝的に論じながら、玉音放送からおよそ30年間の日本の「敗戦後史」を浮かび上がらせようとする。遂に帰還し得なかった兵士を描く五味川純平の大長編小説「人間の条件」を論じた章は特に圧巻だ。

 ところで小野田帰国の74年にはもうひとつ、左翼組織・東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工ビル爆破という大事件があった。それを思い出すとき、故若松孝二監督ならば、小野田少尉の“真の物語”を描き得たのではなかったかと思うのである。
<生井英孝氏>

(4)「本紙・中本裕己のエンタなう!」(夕刊フジ、令和3年10月17日)

 <仏人監督が描く小野田寛郎を追体験した果ての虚無感>

 <映画「ONODA一万夜を越えて」>

 終戦を知らされないまま約30年間、フィリピン・ルバング島で秘密戦の任務を全うした帰還兵、小野田寛郎少尉。フランスの新鋭アルチュール・アラリ監督は、壮絶な孤独と戦う男の映画「ONODA一万夜を越えて」(公開中)として描いた。 

 終戦間近の1944年、陸軍中野学校二俣分校で暗号解読・諜報などの特殊訓練を受けていた小野田(遠藤雄弥/津田寛治)は、劣勢のルバング島で援軍が戻るまでゲリラ戦を指揮するよう命を受ける。出発前、谷口教官が最重要任務を言い渡す。「君たちには、死ぬ権利はない。玉砕は一切まかりならぬ。3年でも5年でも生き延びろ」。この言葉が呪縛のように、小野田に襲いかかる。

 芝居巧者のイッセー尾形が演じる谷口教官は慄然とするほどの威厳があり、魂が抜けたような戦後の様子とのギャップが実に象徴的だ。そして、その間も小野田の戦争は続いていた。 

 過酷なジャングルでは飢えや病気が襲い、仲閒は次々と倒れ、離れてゆく。最後まで一緒だった小塚金七(松浦祐也/千葉哲也)とは何度もいさかいを起こしながら二人三脚で鼓舞し合うが、小塚も奇襲を受け命を落とす。小野田は1人きりで、いく夜も淡々と潜伏する中、74年に旅行者を名乗る青年・鈴木紀夫(仲野太賀)と出会う。

 極限状態の追体験となる約3時間。忠実なドキュメントではなく、反戦を声高に叫ぶわけでもないが、見終わった頃には、言い知れぬ虚無感に襲われる。

(5)「公開中”ONODA 一万夜を越えて”で小野田少尉役」(夕刊フジ、令和3年10月20日)

 <津田寛治「別人」役作りの舞台裏>

 第二次世界大戦が終わってからも29年間、フィリピンのルバング島でサバイバル生活を送った小野田寛郎さんを描いた映画『ONODA 一万夜を越えて』(公開中)が注目されている。第74回カンヌ国際映画祭のある視点部門でオープニング作品にもなった同作の舞台町を探った。

 フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、日本による国際共同製作作品で、原作はベルナール・サンドロン。監督と脚本はフランスで最も注目されているアルチュール・アラリ。

 1974年3月、作戦任務解除命令を受けて51歳で日本に帰還するまで、ジャングルに潜伏した小野田さんの日々をアラリ監督独自の視点で構成した本作は、小野田さんを知らない人にも共感できる人間ドラマに仕上がっている。約4ヶ月間のカンボジアロケを敢行し、臨場感あふれるシーンを作り上げた。

 国際共同製作映画でありながら、ほぼ全編が日本語のセリフで紡がれている異色作。成年期の小野田少尉を演じた津田寛治について、ミリタリーディレクションを担当したビッグファイタープロジェクトの越康広氏はこう語る。

 「津田さんとは別作品でもご一緒したことがありましたが、今作では役作りのため、別人のようにやせて、見つかったときの小野田さんのように頬もこけていた。軍人の所作に関しても、熱心に質問し、貪欲に役作りされていました」

 そして、映画でも再現された当時の小野田さんの生活ぶりについて「現地での小野田さんは、生と死が背中合わせの生活。雨しのぎは屋根代わりに大量の葉を使い、髪やひげは、トタンで作ったハサミを使ってカットするなど、身の回りにある物を改造して生活に必要な物をそろえていました。祖国日本のため、遠くルバング島まで派遣された彼らはどんな気持ちだったのか・・・」と思いをはせた。

 

(6)「プレーバック 1974(昭和49)年3月11日」(東京新聞、令和3年11月10日)

 フィリピン・ルバング島の山中で、終戦から29年ぶりに小野田寛郎元陸軍少尉が救出された。迎えに行った元上官らの説得で、小野田さんの戦争はようやく終結した。写真(省略)は救出翌日の3月11日、マラカニアン宮殿でマルコス大統領イメルダ夫人に会った際のもの。

(7)以上をお読みになって、感想はいかがでしょうか?ここで述べられていることの全体が「交流分析」で一番重要な「脚本」の影響だと理解して間違いありません。

 「脚本」「五蘊」「深層心理」≪≪終戦間近の1944年、陸軍中野学校二俣分校で暗号解読・諜報などの特殊訓練を受けていた小野田(遠藤雄弥/津田寛治)は、劣勢のルバング島で援軍が戻るまでゲリラ戦を指揮するよう命を受ける。出発前、谷口教官が最重要任務を言い渡す。「君たちには、死ぬ権利はない。玉砕は一切まかりならぬ。3年でも5年でも生き延びろ」。この言葉が呪縛のように、小野田に襲いかかる。≫≫

 この「脚本」通りに、小野田寛郎元少尉は、戦争が終わっているのを知っているにも関わらず、戦後、29年もの長い間、「ルバング島の山中」で、不便極まりない毎日を生き続けます。

 ≪≪1974年、ある青年旅行者(仲野太賀)は、幻の日本人・小野田寛郎(遠藤雄弥/津田寛治)に会いにフィリピンに向かう。≫≫

 青年旅行者が会いに出かけても、「脚本」の中で指示されている「命令」を小野田少尉は、守り続けます。

 ≪≪迎えに行った元上官らの説得で、小野田さんの戦争はようやく終結した・・・1974年3月、作戦任務解除命令を受けて51歳で日本に帰還するまで、ジャングルに潜伏した小野田さんの日々≫≫

 「交流分析」の「脚本」をしっかり理解できている方は、以上の意味が理解できることと思われますが、まだ十分に理解出来ていない方のために、12月15日の「今月の言葉」で小野田少尉の「脚本」や「ゲーム」などについて、詳しく解説したいと思います。