2020年3月31日第206回「今月の映画」「黒い司法 0%からの奇跡」
監督:デスティン・ダニエル・クレットン 主演:マイケル・B・ジョーダン ウォルター・マクミリアン
(1)アラバマ州はフロリダ州の隣で、一部がメキシコ湾に面しています。南部の代表的な州なのでしょうね。とても悲惨な出来事が多い州です。
世の中、色々な出来事がありますが、私・藤森の最大の驚きの一つは、検察官や裁判官が、どうみても「無罪」だと思わせる事件の犯人を「死刑」にさせられる人間性です。 特に、下記の袴田さんの事件です。素人の私の推測ですが、袴田さんは完全に無罪です。完全に無罪であるはずの事件であるにもかかわらず、「死刑判決」にもっていける関係者の人間性・・・安眠できるのでしょうか?恐ろしいものです。 いつか機会がありましたら、袴田さんの事件に触れてみたいと思います。
(2)「一審 死刑判決 以来50年ぶり」(東京新聞、2018年1月16日) <袴田さん、元裁判官と面会> 1966年に静岡県で一家四人が殺害された強盗殺人事件で死刑確定後、静岡地裁の再審決定で釈放された袴田巌(はかまだ・いわお)さん(81)と、一審で死刑判決を書いた元裁判官熊本典道さん(80)が面会したと15日、袴田さんの支援団体が明らかにした。 支援団体によると、袴田さんの姉秀子さん(84)が同行して9日に福岡市で面会。二人が在ったのは68年の一審判決以来、約50年ぶりとなる。 一審静岡地裁で陪席裁判官だった熊本さんは2007年、袴田さんが無罪との心証を持ちながら、他の裁判官との合議で死刑判決を書くことになったと告白。袴田さんとの面会を希望していたが、脳梗塞の後遺症で入院して、実現していなかった。 二人は熊本さんが入院している病院の一室で約10分間対面。支援者が公表した映像では、ベッドで横になっていた熊本さんが袴田さんをじっと見つめ、秀子さんの「熊本さん、巌だよ」という問いかけに、「巌・・・」と声を振り絞るように応えていた。 熊本さんは後遺症で言語障害があり、袴田さんは拘禁症状の影響が残る。二人が言葉を交わすことはなかったが、お互いに会えたことは分かっている様子だったという。 袴田さんが8日朝、自宅がある浜松市から遠出を希望したため、秀子さんが急きょ福岡に行くことを決めた。熊本さんと07年以降、何度か会っている秀子さんは「熊本さんも、巌と会いたがっていたから良かっただろう。早く元気になってほしい」と語った。 <写真(未掲載)・病床の元裁判官・熊本典道さんと対面する袴田巌さんと姉の秀子さん=福岡市内で(ジャーナリスト・青柳雄介さん撮影)> |
(2)「STORY」
<今こそ、【真の正義】を問う> 黒人差別が根強い1980年代アラバマ州。若き弁護士ブライアン・スティーブンソン(マイケル・B・ジョーダン)は、黒人の死刑囚ウォルター・マクミリアンと出会う。ウォルターは、18歳の少女を惨殺した罪で死刑を宣告されていた。 彼の潔白を示す優位な証拠があり、彼に不利な証言は、嘘をつく動機がある犯罪者からのたったひとつの証言しかないという事実にもかかわらずである。そんなウォルターの無罪を勝ち取るべく、ブライアンは立ち上がる。 しかし、仕組まれた証言、白人の陪審員たち、証人や弁護士たちへの脅迫など、数々の差別と不正がブライアンの前に立ちはだかる。それでもブライアンは、同じ志をもつエバ・アンスリーとともに、「真の正義」を求め過酷な状況のなか戦い続ける。 果たしてブライアンは、最後の希望となりウォルターを救うことができるのか・・・!?可能性0%からの奇跡の逆転に挑む! |
(3)「アメリカ型刑罰国家の形成とブライアン・スティーブンソンの闘争」(藤永康政・日本女子大学文学部教授)
本作『黒い司法 0%からの奇跡』の前半、主人公のブライアン・スティーブンソンは、アラバマ州の州都モンゴメリーに居を移すと、軽くジョギングを始める。モンゴメリーは、重く、そして奇妙な街だ。ここで映し出される街の光景には、その象徴的なものがいくつか重ね合わされている。 カメラはまず小さな丘の上に立つドームをもった建物を映し出す。アラバマ州議会議事堂である。1861年、リンカンの大統領選出を受けて連邦を離脱した南部諸州は、奴隷制を守るためにジェファーソン・デイヴィスを大統領に選んだ。彼が宣誓式をおこなったのがこの白亜の会堂だった。 やがてブライアンは中二階が入口の小さな建物の前を通り過ぎる。1956年、バスの人種隔離撤廃を勝ち取ったボイコット運動の拠点、デクスター・アヴェニュー・バプティスト教会だ。当時この教会で牧師を務めていたのがマーティン・ルーサー・キングである。 ここでキングはボイコット支援者を前にこう喝破した。「われわれが悪いと言うなら、まちがっているのは裁判所の方だ」。これに応じる大群衆の声が裁判所に実際に届いたことはまちがいない。なぜならば、本作でも何度も出てくるアラバマ州最高裁判所が位置するのは、この教会のすぐ西隣なのだ。それは、南部奴隷制権力と白人至上主義の象徴である州議会議事堂から西へ歩いてわずか5分のところ、正義がもたらされるはずの場である裁判所とのあいだにいまも建つ。 黒人男性死刑囚の冤罪を晴らす本作『黒い司法』には、このように、アフリカ系アメリカ人の闘争とレイシズムの歴史が挟み込まれている。その歴史を素描してみよう。 公民権運動が強調したことは「黒人もアメリカの立派な市民である」ということだった。公民権団体には有能な弁護士が多くいたが、彼らが主に弁護したのは、実直な生活を送っているにもかかわらず権利を侵害された人々だった。犯罪被疑者の弁護をおこなうことは団体の主たる関心の外にあったのだ。この運動の傾向は、公民権法制定後に大きな問題を次世代に残すことになる。 公民権法が制定されたころのアメリカでは犯罪が急増傾向にあり、60年代も中葉になると、犯罪に厳罰を求める声が高まりを見せ始めていた。保守派は「リベラルの甘さが犯罪を助長した」という議論を展開し、「法と秩序」の重要性を訴えた。公民権運動、反戦運動、フェミニズム、これらみな、既存の秩序を問題にして権利を語る。そのような者たちが結局は犯罪者をのさばらせたのだ、というのだ。 これ以後、アメリカでは保守優勢の政治が続く。公民権運動が法制度の面で画期的な勝利を収めようとしたそのとき、世論は重い懲罰を求める方向に転回した。これがアメリカ社会への批判を封じ込め、運動の足元を掬ったのだ。 現在のアメリカ合衆国では、懲罰刑に服している者と執行猶予期間中にある者の総数が約650万を数え、それは世界最多である。受刑者の内訳を詳しく見ると、アメリカの人口総数に占める黒人の率が13%であるのに対し、受刑者のなかでの比率は40%に達する。黒人が身体を拘束される刑事罰に処せられる確率は白人の5倍だ。 人種主義を織り込んだ恐ろしい刑罰国家がここにある。時は戻って奴隷制度があった時代、刑務所に収監されている黒人はごくわずかだった。この状況は奴隷解放に伴い一変する。安価で安定した労働者人口と資本の涸渇に直面した南部では、解放奴隷を放浪などの微罪で懲役刑に処し、かくして増加した「犯罪者」を民間の事業者に貸し出す「囚人リース」が広範囲に用いられた。囚人労働者は、鉄道や道路などのインフラ整備や危険な鉱山での抗夫として働かされ、この地域の産業化の礎を築いた。この制度の盛期であった1898年、アラバマ州の歳入の何と約7割が囚人リースからだった。それはまた黒人の犯罪性向という神話も形成した。現在の刑罰国家はその延長線上に立つ。 本作のなか、北部からやってきたばかりのブライアンは道路沿いで作業する受刑者の姿を見て息を飲む。彼が見ていたのは囚人リースの影、刑罰国家への道だった。 また、囚人リース制度のあった南部ではリンチが猖獗(しょうけつ・たけくあらあらしいこと・広辞苑)を極めていた。日本語で「リンチ」というと単に激しい暴行を意味することが多い。しかし、アメリカで歴史的に現れたリンチとは人種と性と暴力が混在する現象であった。リンチ犠牲者の多くは黒人男性であり、なかでも白人女性への性的暴行の嫌疑(その疑惑のほとんどが「黒人男性は白人女性を欲する」という白人の人種主義的な思い込みから生まれていた)が引き金となることが多かった。かくもひどい罪を犯したからには、法の裁きを待ってはいられない、自分たちで処刑する、というわけだ。EJIの調査によれば、1877年から1950年のあいだにリンチで殺害された黒人の数は4084名に達する。ジェノサイドと呼んでもあながちまちがいではない。本作でも冤罪の背景には黒人男性と白人女性との性的関係がある。<EJIは、次の(4)にあります・藤森> 本作の終盤、主人公は何度か川沿いで苦悶し、同僚と語り合う。2018年4月、この美しいアラバマ州の近くに、「平和と正義のための国民碑」と「レガシー博物館」の複合施設がオープンした。この建造を発案し、資金を集めて実現させたのは、ブライアン・スティーブンソンそのひとである。 現在は全米でいくつかある黒人史関連のミュージアムが強調しているのは、奴隷が解放され、人種隔離制度が終わるという勝利の物語である。しかし、ここの碑に刻まれているのは4084名のリンチ犠牲者たちであり、博物館が語る歴史の終わりには監獄がある。ここに記憶されているのは、闘争はいまも続くという現実なのだ。 スティーブンソンの闘争、すなわち犯罪被疑者の支援という公民権運動が残した闘争に関心が集まり、映画がつくられた。多くの人びとがこうしてアメリカという刑罰国家の異様さに気づき始めている。ここからリアルな「0%からの奇跡」が始まれば、と思う。 |
(4)「ブライアン・スティーブンソンの功績」(宮崎真紀・翻訳家)
アラバマ州モンゴメリーを拠点として、人種、性別、年齢、障害などを理由に不当に逮捕・収監された人々に法的支援をする、非営利団体「EJI(イコール・ジャスティス・イニシアチブ)」の創設者で、事務局長を務める。これまでに冤罪で死刑囚となった100人以上の人々を救ったほか、刑務所内での虐待行為をやめさせ、精神障害や知的障害をもつ囚人や、子供なのに成人として扱われる囚人の待遇を是正してきた。アメリカの人権弁護士として、今もっとも注目されている存在と言ってもいいだろう。 1959年、デラウェア州南部の黒人ばかりが住む貧しい集落で生まれたブライアンは、さまざまな人種差別を身をもって体験した。しかし、幼いころから家族とともに教会に通い、聖歌隊に参加したりしたことが、彼の寛容さ、不屈の精神を培った。 ブライアンが16歳のとき、母方の祖父が、白黒テレビを盗みに入った少年たちに殺された。黒人の老人の死がいかに軽視されたか、十代の少年たちがなぜそんな無文別な犯罪に及んだのか、そのとき受けた衝撃がブライアンを法曹の道へと導いた。 イースタン大学卒業後、81年にハーバード・ロースクールに入学し、弁護士を目指す。このロースクール時代に、ジョージア州アトランタにある南部囚人弁護委員会で、司法修習生として死刑囚の支援を手伝ったことが、ブライアンの未来を決定づけた。 89年、友人のエバ・アンスリーとともに、当時全米でもっとも死刑囚が増加していたアラバマ州でEJIを設立。ウォルター・マクミリアンや、映画にも登場する、2015年に30年ぶりに死刑囚監房から釈放されたアンソニー・レイ・ヒントンのケースなどが有名だが、冤罪で死刑判決を受けた囚人たちをほかにも大勢救ってきた。また、子供への厳しすぎる刑罰を問題視し、12年には連邦最高裁において、未成年者に対する仮釈放なしの終身刑は違憲であるという裁定を勝ち取った。ブライアンの活動は、いまや規模も内容も裾野がどんどん広がっている。 18年には、モンゴメリーに、リンチによって殺害された南部黒人たちの慰霊施設「ナショナル・メモリアル・フォー・ピース・アンド・ジャスティス」と、黒人差別の歴史をひもとく博物館「レガシー・ミュージアム」を開設した。どちらにもブライアンの祈りがこめられている。 ブライアンの成功の秘密は、彼の発信力にあるとも言える。映画の原作でもある著書「黒い司法 黒人死刑大国アメリカの冤罪と闘う(原題:Just Mercy :A Story of Justice and Redemption)」はニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに載り、タイム誌の2014年度ノンフィクション部門のベスト10に選ばれた。12年のTEDトークでのスピーチでは史上最長のスタンディングオベーションを記録し、Webサイトで数百万という視聴数を叩き出した。もちろん、そうして調達された資金がEJIの活動を支えているのである。また、マッカーサー財団「天才賞」、ベンジャミン・フランクリン賞など、受賞歴もめざましい。 現在ニューヨーク大学ロースクールで法学教授も務めている。 <“貧困”の反対語は 裕福ではなく“正義”だ>「黒い司法 黒人死刑囚大国アメリカの冤罪と闘う」本文より(ブライアン・スティーブンソン著・宮崎真紀訳・亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズⅡ-9 2,600円) |
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