2021年2月28日第217回「今月の映画」「すばらしき世界」

監督:西川美和  主演:役所広司/仲野太賀/六角精児/北村有起哉/白竜/長澤まさみ/安田成美/梶芽衣子/橋爪功

(1)殺人罪で13年の刑期を終えた三上は、保護司である庄司夫妻に支えられ自立を目指している。生き別れた母を探す三上に、テレビ関係者がアプローチしてくる。彼らの目的は、三上の姿を面白おかしく紹介することだった。不器用な性格でトラブルの絶えない三上だったが、その無垢な心に打たれた人々が集まってくるようになる(シネマシティの案内より)

 

<<罪を憎んで人を憎まず>>

<孔子の教え>
「人が犯した罪は憎むべきであるが、その罪を犯した人を憎んではいけない」、「犯した罪は憎むべきだが、その人が罪を犯すまでには何か事情があったのだろうから、罪を犯した人そのものまで憎んではいけない」という意味。

 他者への思いやりや配慮、思慮分別、寛容性の大切さを説いているともいえる。

 

<キリスト教>
多くのクリスチャンが”罪を憎んで人を憎まず“というお決まり文句を唱えます。しかしながら、これは不完全な人間としての私たちに対する訓戒であることを悟らなければなりません。 愛することと憎むことに関して、私たちと神との間の違いは広大なものがあります。

 クリスチャンになってさえ、私たちは人間性において不完全で、完全に愛すことはできません。また完全に憎む(言い換えれば悪意なしに憎む)こともできません。

 しかし、神は神だからゆえに、この両方のことを完全にすることができるのです。神は、罪深い意図なしに憎むことができるのです。だから、神は罪と罪人を完全に聖なる方法で憎むことができ、その罪人が悔い改めて信じるとその瞬間に愛をもって赦すことができるのです。(マラキ 1:3;黙示録2:6;第2ペテロ3:9)

 聖書は明らかに神は愛であると教えます。第1ヨハネ4:8-9は、「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。」と言っています。

 不思議なことでありながら真理でもあるのは、神には完全に愛し、同時にその人を憎むことができるという事実です。

 これは、神はご自分が創造し贖(あがな)うことができる人 として人を愛すことができるのと同様に、同時に人の不信と罪深い生き方のせいでその人を憎むこともできるという意味です。不完全な人間として私たちにはこれができません。それで、私たちは自分に「罪人を愛し、罪を憎め」と言い聞かせなければならないのです。(ウィキペディアより)

(2)「シネマ・パラダイス」(映画評論家・折田千鶴子、夕刊フジ、2月13日)(「すばらしき世界」は、★★★★★5つの満点評価です)

 元殺人犯の社会復帰の困難と、彼を囲む人々との交流を描く。直木賞作家、佐木隆三のノンフィクション『身分帳』を元に、『ゆれる』『永い言い訳』西川美和が映画化。自らのオリジナル脚本で撮り続けてきた西川にとって初の原作もの。シカゴ国際映画祭で主演の役所広司が最優秀演技賞を受賞。公開中。2時間6分。

 長い刑期を終え出所した三上(役所広司)は、新生活をスタートさせる。そんな三上に前科者の社会復帰を面白く番組にしようと、若いテレビマン(仲野太賀)が近づく。

 <ホンネ>前科者だが優しく正義漢で感激屋。同時に短気でけんかっ早い。子供がそのまま年をとったような男の悪戦苦闘を、時にコミカルに演じる役所の演技がまさに白眉!生い立ちや境遇を知るにつけ胸が苦しくなる。社会は冷たいが、人の情は温かい。見終えた後、タイトルが忘れ難く胸に迫る。

(3)「映画『すばらしき世界』が描き出す“社会の陥穽”」(日刊ゲンダイ、2月13日)

 <役所広司がムショ帰りの初老ヤクザを好演>

 このほど公開された邦画「すばらしき世界」が話題である。「ゆれる」「ディア・ドクター」「夢売るふたり」などの西川美和監督(46)がベテラン役所広司(65)を主演にメガホンを取ったのは、長い服役を終えて塀の中から出てきた初老の元やくざの再チャレンジ。直木賞作家佐木隆三の91年の伊藤整文学賞受賞作家「身分帳」を原案に、舞台設定をこの世知辛く、不寛容な日本の閉塞社会に置き換えている。

 「世の中の関心事の枠外にある、誰からも見逃されているようなテーマ」などと、マスコミ取材に西川監督はコメントしているが、主人公三上の置かれている状況は、誰もがいつ落ちるかわからない世の中の陥穽である。

 晴れてシャバに戻ったものの、どれだけ仕事を探してもなしのつぶて、三上はぼろアパートでひとりカップ麺の毎日で、近所のスーパーでは万引きの嫌疑をかけられてしまう。監督が撮影にあたって元受刑者らにリサーチしたところ、「この社会ではなかなかやり直しが利かない」と口をそろえ、原作の時代より現在のほうがずっとシビアだと実感したそうだ。それでも「死ぬわけにもいかない」と悪戦苦闘を続ける男には、人とのつながり、ぬくもりを感じられる瞬間も巡ってきて一筋縄ではいかない。

 秀逸なのが、前科10犯という三上のキャラクターだ。街で若者に恐喝されているシニアの男を見かけると、割って入って守る。激高し、暴れると歯止めが利かなくなるが、それなりの筋や道理があってこそだったりする。見て見ぬふりの社会とは真逆のうえ、やりすぎてしまい、また窮地に陥るが、それでもまた体を張っていく。本作での役所広司は「無法松の一生」での三船敏郎、「男はつらいよ」の渥美清のような、アウトローなのだけれども人情家なのだ。ようやくパートタイムの居場所を見つけた介護施設でも、軽い障害のあるスタッフへのいじめがあって拳を固めてしまうのだが・・・・・。

 劇中、元いた場所に戻ってしまいそうになるそんな三上を制して、旧知の親分の妻マス子(キムラ緑子)はこう言う。

 「シャバで辛抱しても、楽しいことなんかそうないけど、空が広いっていうよ」

 上映後に天を見上げると、なるほど空の青さはこんな社会においても変わらず、そしてたしかに広かった。第56回シカゴ国際映画祭で観客賞最優秀演技賞を受賞。東京・新宿ピカデリー、大阪・梅田ブルク7などで公開中だ。

(4)「『映画・すばらしき世界』桂春蝶の蝶々発止。」(夕刊フジ、2月23日)

 <人間社会に投げかける「愛」の大切さ>

 <生まれながらの悪人などいない> 

 西川美和監督作品の映画「すばらしき世界」を見ました。下町の片隅で暮らす、人生の大半を刑務所で過ごした元殺人犯。不寛容と善意が織りなす人間関係の中で、愛も悲痛も、光も影も、全部ミキサーの中でかき回し、その場で一気飲みするような映画でした。

 反社会的立場にいた方が更生し、社会復帰することが困難なのは、ある経験上、私は理解できます。父の友人で、普通の会社員でしたが、若い頃にずいぶんやんちゃをして背中入れ墨を背負った人がおりました。海水浴に行っても、その人は服を着たまま子供たちと遊んでいました。

 彼にとっては文字通り、「消せない過去」だった彫り物。その後、その人は亡くなりました。自殺で、しかも焼身自殺でした。自ら、その入れ墨を燃やすことでしか過去を断ち切れなかったのか・・・。多くの苦悩があった見当は子供でも分かりました。私はその話を鮮明に覚えています。

 生まれながらの悪人などいませんよ。育ってゆく過程で、さまざまな因縁の中で運命的に人は道からそれてしまう。どうにも生きづらい人生を背負う方々が、唯一救われることがあるとするなら、(最大限に陳腐だが、それでも書くことを許してください)それは「愛」しかないと私は思うのです。

 「すばらしき世界」という映画が私たちに投げかけるもの、それは人間愛です。その人間の「愛」を下世話な言葉にいたしますと、これまた陳腐だが、「共助」という言葉になるのでしょう。いわば人間同士のコミュニティー、周りからの善意や思いやり、励ましなどがあったら、その人の人生は全く違うものになると思います。

 役所広司さん演じる主人公、三上正夫はこの世の地獄から「すばらしき世界」を見いだしました。しかし、それは身近な人たちからの熱い愛や思いがあり、本人のたゆまぬ努力があったからです。「共助と自助」があって成り立った「すばらしき世界」

 世間ではよく、「公助が大切だ」と言われるが、それには坂口安吾の「堕落論」での一節を引用すると・・・「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わねばならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」これで大体の説明はつくと私は思います。

 公助を決定する政治家さんたちも、公助を求めるテレビのコメンテーターにも、そこに「愛」はございません。生活保護などのお金はありがたいが、本当に人を救うのは生活保護費よりも生身の人間からの「思いを持って、かける時間」だと私は思う。

 この映画は、西川監督から人間社会全体に対する「愛量測定」なのかもしれません。愛があればきっと、この映画は「すばらしき世界」に見えるはずです。

<<かつら・しゅんちょう・・・1975年、大阪府生まれ。父、二代目桂春蝶の死をきっかけに、落語家になることを決意。94年、三代目桂春団治に入門。2009年「三代目桂春蝶」襲名。明るく華のある芸風で人気。人情噺の古典から、新作までこなす。14年、大阪市の「咲くやこの花賞」受賞。>>

(5)一般にいう「運命」・・・人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命(めい)によって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせ。(広辞苑)

 この「運命」に相当する仏教用語に「自業自得」があります。

 <自業自得とは何か?>

 私たちは「自業自得」は、悪い意味で使われています。広辞苑によると<仏>自らつくった善悪の業の報いを自分自身で受けるとこ。一般に、悪い報いを受けることにいう。自業自縛、とあります。

 しかし、仏教の本来の意味は「悟りの心境」を意味します。

では、「自業自得」とは何か?

<<自業に住する念仏門、衆生(しゅじょう)の積重(しゃくじゅう)する所の業に随(したが)いて、一切の諸仏はその影像(ようぞう)を現じて覚悟せしむることを知るが故に・・・・>>

<<「人にはそれぞれ、自ずから引き受けて生きなければならない独自ないのちのはたらきや世界があります。それを十分に引き受けて、その中を生きぬくことが、仏様の世界を念じて生きることなのです。

 なぜかといえば、仏様は、無限の過去から重々無尽の因縁を積み重ねて生きる私たちのいのちに、ぴったりと寄り添ってくださり、直接仏様の姿ではなく、影の姿を現わして私たちを悟りの世界にみちびいてくださるからです」。>>

(故・大須賀発蔵先生著「東洋の心を生きる・いのち分けあいしもの」の中の<「華厳経・入法界品(にゅうほっかいぼん)」の一節>柏樹社)

 私たちは、生まれたその瞬間に、<<衆生(しゅじょう)の積重(しゃくじゅう)する所の業>>があります。

 生まれた国や場所(例えば、ミャンマーで大問題になっているロヒンギャの皆さんの仲間であるとか)や、両親がどういう人なのか、自分は男か女か、裕福な家庭であるとか、そうでない家庭であるとか、シングルのマザーやファザーであるとか、両親がスポーツや音楽が好きであるとか、そうでないとか、東日本大震災の被災当日に誕生したとか、兄弟姉妹が何人で自分は何番目であるとか、想像を絶する種々様々な要因(積重する業)を「無条件」で全てを背負いながら私たちは誕生します。

 その後に、いろいろ工夫して一部を変更することは可能ですが、誕生の時点でのこれらの要素(自業)は、一切、変更ができません。

 その要素(自業)を、可能な限りそのまま引き受けること(自業自得すること)が「悟りの世界」だと「華厳経」は説いています。

 譬えていえば、「自業」は太平洋の「海」で、人生を何とかしようと頑張ったり、もがいたりする我々は、浜辺に打ち寄せる波を何とか乗りこなそうともがいている「サーファー」みたいなものです。

拙著<「交流分析」の「人生脚本」と「照見五蘊皆空」>のp17~19より≫

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