2019年11月30日第202回「今月の映画」「エンド・オブ・ステイツ」
主演:ジェラルド・バトラー  モーガン・フリーマン  ジェイダ・ピンケット=スミス  ランス・レディック

監督:リック・ローマン・ウォー

(1)この映画は、アクション映画としてもとても面白かったです。

 しかし、それ以上に楽しめた理由は、下記の(4)「テロリズムのスペクタクルとヒューマニズム」(福田充、日本大学危機管理学部、同大学院新聞学研究科・教授で詳しく書かれていますので、ここをジックリお読み下さい。

 私は、今、昨年、「般若心経」の冊子を作りましたが、今回、「新・般若心経」を再作成しました。その中の最後でも書きましたが、最近の「科学」は、私たちの人生を幸せにしてくれるレベルを超えて、行き過ぎているように思えてなりません。その中の一つにドローンの兵器化です。

 下記の(4)でも述べられていますが、国営石油会社サウジアラムコへのデルタ翼型自爆ドローン攻撃に象徴されるように、何百億、何千億円も掛けた兵器や防衛施設などでも、ドローンの格安・・・百万円単位?・・・の兵器、かつ撃ち落としにくい兵器に太刀打ちできなくなるのではないでしょうか?

 この映画では、スタート直後から大量のドローンの兵器が大統領を襲う凄まじいシーンがあります。

 さらには、<<<現代の超大国アメリカは、自国軍の兵士の命が奪われる「戦争」を実行できなくなって久しい。その結果、アメリカが世界で展開している現在の「軍事作戦」の多くは、自国の兵士の命が奪われる地上戦を伴わないトマホーク巡航ミサイルやドローンを使用した空爆が主流であり、命の危険を伴う地上任務の多くは、正規のアメリカ軍ではなく、民間軍事会社に委託される時代となった。>>>

 こういう時代になってしまっています。いろいろな意味で、この映画の鑑賞をお勧めします。

(2)全米初登場NO.1 全世界待望の大ヒットシリーズ 最新作にして最高傑作!

 ホワイトハウス陥落、ロンドン同時多発テロ事件、世界を危機から救ってきた男、シークレット・サービス最強のエージェント、マイク・バニング。次回作を熱望していたファンに応え、満を持して、彼がついにスクリーンへ帰ってきた。

 公開されるやいなや全米初登場NO.1の大ヒットを記録し、映画レビューサイトROTTEN TOMATOESの観客支持率を表すAUDIENCE SCOREでは驚異の95%という記録を打ち立てた(2019年8月27日現在)。

 <堕ちた英雄、最後のミッション・・・>

 物語は、未曽有の大惨事から世界を救ってきた英雄、大統領護衛官のマイク・バニングが、奇しくも大統領暗殺疑惑をかけられることから始まる。仲間やFBIから追われながらも、濡れ衣を晴らすため真犯人を突き止めようと、歴戦で病んだ身体を奮い立たせ、最強の敵に立ち向かう。果たして彼は、家族を、大統領を、アメリカを、そして世界を救うことはできるのか・・・。

 大量のドローン爆弾に襲われる圧巻の戦闘シーンからノンストップで展開される怒涛のアクション。そしてまさかのバニング自身が容疑者として追われ、世界大戦の危機が迫るという衝撃の展開に、ファンからは「シリーズ最高傑作」との声も上がっている。

(3)「STORY」

 容疑者となった最強のシークレット・サービス
大統領暗殺計画の裏に蠢くのは、世界を破滅に導く巨大な陰謀

 かつてたった一人で世界を未曽有のテロ事件から救った英雄マイク・バニング。今もシークレット・サービスのエージェントとしてアメリカ合衆国大統領アラン・トランブルから絶大な信頼を得ている。しかし、長年の激務と歴戦の負傷は、彼の身体を激しく蝕んでいた。自らの限界を感じながらも、家族や仲間、父親のように慕っている大統領にも言い出せぬまま、ひとり痛みに耐え、薬漬けの生活を送っていた。

 引退の二文字が度々頭をよぎるようになったある日、休暇中の大統領の元に突然空から大量のドローン爆弾が襲いかかる。決死の覚悟で身を挺して大統領を守るマイク。だが激しい攻撃の中、ついに意識を失ってしまう。目を覚ました彼は、病室のベッドに拘束されていた。シークレット・サービスの仲間は壊滅状態、一命を取り留めた大統領は、意識不明の重体。そしてマイクは、大統領暗殺を企てた容疑者としてFBIの執拗な尋問を受ける。全く身に覚えのない濡れ衣、しかし何者かが周到に用意した証拠はすべてマイクが犯人であることを示していた。

 護送車からなんとか隙を突いて逃げ出したマイク。暗闇の森の中を、執拗に追ってくるFBIから逃れるため、命懸けの逃避行。アメリカ全土でお尋ね者となった彼が思いつく逃げ場は、たった一つしかなかった。

 <よくここを見つけたな>
ライフルの銃口を向けて出迎える老人、クレイ・バニング。幼い頃、母と自分を捨て、人里離れた山中に引きこもり、暮らしている父親だ。マイクは長い間、憎しみ、恨み、それでも生存を確かめずにはいられなかった父親への複雑な愛情を持て余していた。愛するがゆえに二人を捨てた父は、それを瞬時に受け止め、窮地の息子を救おうとする。そこへ招かれざる客がやってきた。

 現れたのはFBIではなく、完全武装の戦闘集団、マイクを陥れたかつての戦友、ウェイド・ジェニングスの部下たちだった。クレイの完璧な戦術で見事に脱出に成功する二人。だが、ウェイドの背後に何か大きなものが動き始めていた。

 <探さなくていい、こっちから見つけてやる>
 自らの無実を証明するため、家族を救うため、大統領を救うため、ボロボロの身体にムチを打って走り出す。やがて明らかになる陰謀、それは世界を破滅へと導く恐るべき計画だった。

 そして、傷だらけの英雄マイク・バニング、最後の戦いの幕が切って落とされる。

(4)「テロリズムのスペクタクルとヒューマニズム」(福田充、日本大学危機管理学部、同大学院新聞学研究科・教授

 現代の超大国アメリカは、自国軍の兵士の命が奪われる「戦争」を実行できなくなって久しい。その結果、アメリカが世界で展開している現在の「軍事作戦」の多くは、自国の兵士の命が奪われる地上戦を伴わないトマホーク巡航ミサイルやドローンを使用した空爆が主流であり、命の危険を伴う地上任務の多くは、正規のアメリカ軍ではなく、民間軍事会社に委託される時代となった。

 アメリカが展開する世界中での軍事作戦と紛争地の治安維持活動は、乱立した民間軍事会社が奪い合う利権闘争の場と化した。これが現代アメリカの安全保障の「リアル」である。

 そのような「リアル」なアメリカと国際社会の安全保障体制と時代背景の中で、この「物語」は展開し、アラン・トランブル大統領と主人公マイク・バニング大統領警護官も新たな危機に直面する。

 コンピュータ制御された大量の自爆ドローン攻撃の威力は、本年9月にサウジアラビアで発生した国営石油会社サウジアラムコへのデルタ翼型自爆ドローン攻撃で実証された。イエメン内戦のフーシ派による犯行声明にも拘わらず、アメリカはイランによる攻撃とみなし、両国の緊張をさらに高めている。

 「物語」に描かれる高度化したアメリカの民間軍事会社の訓練施設やその情報セキュリティレベル、サイバー攻撃レベルの高さ。アメリカ各地の地域に根差したミリシア(民兵団=追われるバニングに銃口を向ける民間人が登場するシーン)が保持する銃器類の脅威を支えているのは、アメリカの銃社会の現実である。またIoT化された車の運転システムはすでにハッキングが可能であり、病院内のICU治療システムへのサイバー攻撃とコントロール、ロシアからの送金にみせかけた金融決済システムへの不正アクセス、アメリカ国内全域に張り巡らされたネットワーク監視網などは、すでに「リアル」な社会環境の一部である。

 こうしたテクノロジー環境の中で発生する「戦争」や「テロリズム」の現実。本来フィクションであるこの「物語」が描いているのは決して空想の絵空事ではなく、現在の世界で十分に起こり得る「リアル」である。かつてSFでしか描写できなかったテクノロジーの多くが、すでに現実社会を構成しているインフラと化した現在、かつてのSFを現実が凌駕する事態をもたらした。

 こうした状況をもたらしたのは、映画という「フィクション」と現実社会の「リアル」の相互作用である。世界で発生しているテロリズムの技術的高度化と、スペクタクルの高度化とはこの相互作用の中で拡大してきた。

 バニング警護官が巻き込まれたこのテロリズムも、アメリカというハイパーリアリティの社会ではすでに奇想天外なフィクションではなく、リアルなシナリオとして成立しているのは、そうした背景によるものである。本作のストーリー展開はこれまでの映画史の中ですでにステレオタイプ化されたオーソドックスな物語構造に準拠しており、だからこそ十分にリアルな臨場感をもたらすことに成功し、クライマックスのラストシーンへと観客を導く。

 この物語の軸は、大統領暗殺を目的とした要人暗殺テロリズムという極めて古典的なテロリズムの構造を持つ。歴史的に、テロリズムとは国王や政治家など権力者を直接殺害することによって政治体制を変えることが主要な目的にひとつであった。テロリズム研究者のブライアン・ジェンキンスはかつて『テロリズムは劇場である』という表現を残したが、一方でテロリズムとは社会全体を巻き込み、一般市民もその観客=オーディエンスに変える劇場としての機能を持つ、もっとも古い劇場型犯罪である。

 この作品の中で繰り返されるテロ事件のメディア報道を通じて、私たちオーディエンスはこの成り行きを、固唾を飲んで見守る作品中の一市民となる。メディアスクラム(集団的過熱報道)化するテレビのテロ報道を通じて、FBIや政府機関が追いかける監視カメラ映像を通じて、私たちが見ているこの「物語」は果たして映画なのか、報道なのか、現実なのか、バニング警護官を見つめる視点が翻弄される。こうして観客も、このストーリーの中に巻き込まれてそのスペクタクルの一部として取り込まれるのである。

 これがテロリズムを題材とした映画の魅力であろう。私たちオーディエンスは、現実社会のテロリズムに魅せられるように、この「物語」の中のテロリズムとそのスペクタクルに魅入られるのである。

 さらにもう一つ、私たちオーディエンスが「リアル」なストーリーに取り込まれる起点となるのが、バニング警護官の人間らしい側面であり、具体的には妻と子どもの家族との生活であり、ベトナム戦争のトラウマから離れ離れになった父子関係である。誰にでもありうるこうした家族関係や生活の描写がバニング警護官を感情移入可能な自分たちと同じ人間に変える。

 元同僚との壮絶な死闘の末の最後のメッセージ、命をかけて守り抜くトランブル大統領との信頼関係、この「テロリズム」の時代に、この「テクノロジー」の時代に私たちオーディエンスが向かい合うべきはこの「ヒューマニズム」(人道主義、人間愛もしくはこの場合には良心と言ってもよいかもしれない)だと、この作品は訴えかけている。

<ふくだ・みつる・・・1969年、兵庫県西宮市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は危機管理学、リスク・コミュニケーション、テロ対策、インテリジェンス、災害対策など。内閣官房委員会委員、コロンビア大学戦争と平和研究所客員研究員などを歴任。著書に「メディアとテロリズム」(新潮新書)、「テロとインテリジェンス~覇権国家アメリカのジレンマ」(慶應義塾大学出版会)、「リスク・コミュニケーションとメディア」(北樹出版)、「大震災とメディア~東日本大震災の教訓」(北樹出版)など。>

(5)<「エンド・オブ・ステイツ」が傷ついた男たちへの鎮魂歌である理由>
                           (村山章・映画ライター)
    2013年に公開された『エンド・オブ・ホワイトハウス』は、同時期に公開された類似企画『ホワイトハウス・ダウン』(13)とは品質的なものが明らかに違っていた。『ホワイトハウス・ダウン』『ダイ・ハード』(88)系のウェルメイドなエンタメだったのに対し、『エンド・オブ・ホワイトハウス』はバイオレンス要素が強いハードアクション。そして狂気すら漂うバイオレンスのパートを担っていたのは、敵のテロリストではなく、ジェラルド・バトラー演じる主人公マイク・バニングだったのだ。 バニングは任務のためにいささかの躊躇もなく敵を殺す。リンカーン大統領の頭像でテロリストの頭を叩き潰してとどめを刺すような容赦を知らない暴力性は、従来のヒーロー像に収まらない闇の一面を垣間見せ、作品の突出した個性にもなっていた。

 シリーズ第3作となる『エンド・オブ・ステイツ』で監督を務めたのはリック・ローマン・ウォー。80~90年代にスタントマンとして活躍し、映画監督に転身した人物だ。バイオレントなアクションをより先鋭化させるための最適な人材、というのが起用理由に思えるが、完成した映画を観れば、ウォーがもたらした最大の功績はアクション面以上にエモーショナルなキャラクターの探求だったことがわかる。

 ウォーの公式な監督デビュー作『in The Shadow』(01/日本未公開)を残念ながら筆者は鑑賞できていない。しかしその後の監督作を追うことで、ウォーの一貫した作家性のようなものが浮かび上がる。

 第2作『プリズン・サバイブ』(08)は、16mmフィルムのザラついた映像が印象的な刑務所もので、平凡な家庭人が自宅に侵入した犯人を殺してしまい、過剰防衛で有罪になる物語だ。続く『オーバードライヴ』(13)の主人公は運送会社の経営者で、ティーンエイジャーの息子が麻薬所持で逮捕される。しかし密告する相手がいないという理由で重刑が課せられると知り、自らが情報提供者になることで減刑を勝ち取ろうとするのだ。アクションスターのドウェイン・ジョンソンが主演だが、アクションよりもドラマに主眼が置かれている。

 17年の『ブラッド・スローン』では『プリズン・サバイブ』のモチーフをさらに展開させた。飲酒運転で死亡事故を起こしたエリート男性が、刑務所で生き抜くために悪に染まっていく姿を通じて、暴力の連鎖というテーマを掘り下げている。いずれもよくあるジャンル映画に見えて、現実の社会問題を見据える視点が感じられる骨太な作品ばかりだ。

 『エンド・オブ・ステイツ』とダイレクトに結びつくのが、15年に発表されたドキュメンタリー作品『That Which I Love Destroys Me』(日本未公開)。同作でウォーは、PTSDに苦しむ帰還兵たちにカメラを向けた。そこで想起されるのが、『エンド・オブ・ホワイトハウス』でわずかに語られたバニングの過去、「ここに来た当時のあなたはセラピーが必要だった」という上司のリンの台詞だろう。

 本作でウォーは、バニングの過去を明かすと同時に「いつまで過酷な任務に身をさらし続けていられるのか?」という命題に挑んでいる。今作のバニングは、蓄積する長年のストレスに心身を蝕まれ、再びセラピーが必要な状態に逆戻りしているのである。

 心に問題を抱えているのはバニングだけではない。軍人時代の戦友ウェイドは経営する民間軍事会社のためにバニングを陥れるが、真の動機はカネではなく、最前線のスリルに身を置きたい危険依存症だ。だからこそ、バニングが反撃してくると興奮して「それでこそ俺のマイクだ!」と喜ばずにいられない。

 もうひとり、重要な役割を担うのがニック・ノルティ扮するバニングの父クレイ。クレイもまた、PTSDに苦しみ、家族を捨てて失踪した元軍人として登場する。もはや祖国を信じることができずに世捨て人になったクレイにとって、息子が大統領を守るシークレット・サービスであることは運命の皮肉であろう。バニングにとっても、誇大妄想じみた孤独な老人になった父親の姿は、未来の自分自身を見る思いだったに違いない。

 また、作品の主軸が、バニングが内なる悪魔との対峙である以上、立ち向かう敵が国際テロリストのような外的な脅威でなくなったことも必然だろう。過去のバニングであれば、いくら旧友であっても、自分を陥れ、大統領の命を狙ったウェイドを無慈悲に始末していたはず。しかし今回は、進む道が違ってしまった友に惻隠の情まで見せているのだ。

 そんな3人の男たちの不気味な生き様と、社会からはじき出された人々の葛藤を描き続けてきたウォー監督の作家性を結びつけるのは、あながち間違っていないように思っている。映画を観たみなさんはどう感じられただろうか?